人生と現実

Posted at 22/09/24

9月24日(土)晴れ

台風一過というのか、今日は久しぶりによく晴れている。地区のお祭りで御柱祭というのがあるのだが、四つある大社の御柱はすでに春のうちに終わっているが、地元の村の神社の御柱祭が先週と今週で行われている。私は諸事情あって参加していないのだが、地域の人々が朝早くから遅くまで祭りに関わって頑張っているので、昨日の雨は大変だなと思っていたのだが、今日は晴れてくれてよかった。先週は終盤に雨に見舞われたが、この感じだと今日明日は良い天気で持ちそうだ。

目の調子があまり良くなく、少し気にしているのだが、天気が晴れると気分が良くなる。眼鏡は四個持っていて、それぞれ度や焦点が違うので使い分けているのだが、今かけているのは手元用(つまり老眼が入っている)のメガネで、先日作ったばかりなので近い距離はよく見えていいのだが、慣れないせいか目が疲れる。もともと強い近視なので恐らくはそのせいで遠近両用は作れなかったのだが、若いうちはなんとかなっても歳をとってくるといろいろ不都合が表面化してくるということはあるのだなと思う。

そういうことを考えていると、人生とは別に現実というものがあるのだなと思う。この現実というものは、よく「壁」と言われているものなのかなと思う。

人は人生を壁にぶつかりながら生きていくけれども、その壁のことを「現実」と名付けているのではないかと思う。壁は越えられる壁もあるし越えられない壁も、越えられそうで越えられない壁も、越えられそうもないけど越えられる壁もあるのだが、現実というのは無表情なようでいてよく観察するとさまざまに豊かな表情を持っているものだから、越えられるにしても越えられないにしても現実を観察することは意味のあることだと思う。

ただ人生が楽しいとしたら、いろいろな現実の壁みたいなものを乗り越えていく、攻略していくのが楽しいのではないかとは思う。ただ楽しさだけでなく、それにトライする前は不安もあるし、その周りをぐるぐる回って不安が募ったりもするし、諦めもあれば怒りもあり、悲しみもあるわけで現実というものが非情極まりない顔をすることもある。

自分の置かれた状況が変わることで現実も全然違う顔を見せるようになるし、現実をよく見ろというけれども、見えている現実はどんなによくみても、また見れば見るほど人によって見えるものは違うということになるので、認識を共有することはできても現実を共有することはできないから、見ている現実=物自体は違うけれどもそれを共有できるくらいの融通を認識というものは持っているということもできる。

ここにきて私が「現実」と感じるものは「年齢」とか「能力」とか「体力」とか「時間」とかな訳だが、「稼ぐ力」というのも大事なわけで、現実というのはお金ではどうにもならないものも多いけれどもお金があれば現実の風力を弱めることができる面もあるわけで、やはり稼ぐ力というのは生きる力の一つのバロメーターではあるのだなと思う。まあ資本主義社会における現実というものはそこに帰着してしまう面はどうしてもあるが、その力を強化しながら頑張っていかなきゃなあとは思う。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday