書きたい文章が書きたいように書けない時の対処の仕方/楽しむことにも覚悟がいる

Posted at 22/09/20

9月20日(火)台風通過中

昨夜はエリザベス女王の国葬をネットやテレビで少し見て、なんとなく早く寝ようと思っていたのだけど、昨日はゆっくりしすぎたせいかあまり寝付かれず、夜中に何度か起きたし眠りも浅かったと思う。今9時過ぎだが、今になって眠い。

何回か「書きたいことを書くと言うこと」と言うテーマをめぐって書いてみたが、「書きたいという気持ちはあるけど書きたいように書けない」と言うのはどう言う時か、と言うのを考えてみた。それはなぜそうなるかというと、つまりは「そのことについてよく知らない」と言うことが多い、と言うことだなと思った。

主に毎日書いているブログ、つまりタイムリミットが一番カツカツの文章について少し書いてみる。誰でもそうかもしれないが、私などもネットでよくみていたりテレビで見たりするとそのことについてすごくよく知っている気持ちになっていることがある。だからそのことについて何らかの意見を持つこともあるわけで、だからそのことについて書きたい、言いたい、と言うことになることもよくある。

しかし書いてみると書けない。わかっているつもりだったことが実はあまりよく知らないと言うことに書いてみてから気づくと言うことがある。書きたい気持ちはあるのに、知らないから書けない、と言うことだ。

そんな時の対処は幾つかあるが、一つ目は「このことについて書いてみたいと思ったけど、書き始めてみたらよく知らないことに気がついたから書くのはやめる」と言う対処がある。まあこれは真っ当と言えば真っ当なのだけど、書きたいと言う気持ちの勢いみたいなものはそれでは消えないので、エネルギーの持って行き場に困ると言うことになる。

二つ目は、「よく知らないから書けないんだから調べて書いてみる」と言うことだ。調べると言ってもすぐ書きたいのならネットでググるくらいしかないのだけど、特に自分に不案内な分野だと専門用語とかが出てきてもちんぷんかんぷんだったりして、そう言うのを理解して書こうとするとすごく時間がかかることになる。結局それだけのエネルギーを最初に用意していないことが多いから、もしその時調べられるなりに調べて書いても、疲労困憊ということになるし、時間切れということになることも多い。私などはこういう時は、こういうことについてこう思ったので書いてみようと思ったが、この辺りまで調べたが時間も余裕もないので改めて余裕がある時に書いてみる、と現状を書いて終わりにすることが多い。なかなかその続きを調べる余裕が出ないことは多いし、また関心も失ってしまっているので興味の残骸みたいなものが残ることになることが多い。

まあこれは中途半端ではあるのだが、エネルギーも時間もその枠に合わせて書くのでそんなに無理はない、という利点はある。ただ読んでいて面白いものにするのは少し難しいだろうと思う。

三つ目は、書くテーマを変えて改めて書く、ということだ。時間が本当にない時や、書き始めてから自分の力量に余るテーマだったと気がつくことも多いので、それに見合ったテーマをもう一度考え直すということだ。

この時は一番大変だ。一度盛り上がった気持ちに切りをつけ、違うテーマについて一から考えなければいけない。「ネタ帳」を作っている人もいるし私もそういうのを考えたこともあるのだが、その時書きたいテーマというのは少し経つともう書く気がなくなっていることも多く、それどころかなぜそのテーマについて書きたかったのか忘れてしまっている場合もある。だからなかなか役に立たないし、ネタ帳を作るくらいならそのテーマについて書いてしまえと思って文章のストックを作ることもあるのだが、これもまた古くなってみるとアップしなくてもいいやという気持ちになったりして、なかなかうまくいかない。

ブログというのは、特に書き手自身にとっては毎日の新鮮さが命みたいなもので、読んでくれる方が何年か前のエントリにnoteで言えば「スキ」をつけてくれるのも嬉しいのだけど、そういうことがあって読み直してみると他人の文章を読んでいるような感じで、逆に新鮮さを感じたりすることもある。そういう「自分自身との出会い」みたいなものも面白いことは結構あるのだけど、少なくとも「今日会ったこと」「今日考えたこと」ではないので今の自分とは距離がある。

まあこういう時、つまりテーマから考え直すような時は時間切れになってしまって「生存報告」、つまり「今日は上手く書けなかったのでまた書きます」的な文章でお茶を濁すことになってしまったりする。あまりそういうことはしたくはないのだけど、ネタを探してTwitterをつい読み耽ったりして時間がなくなることもままあるわけで、これは時間の使い方の問題であったりもする。

まあどちらにしても、そのテーマと自分との距離を把握し、自分なりの視点で何が書けるかを考え、何を調べる必要があり、どれくらい掘り下げて考えなければいけないかを把握し、そこで考えたこと、書きながら出てきたことを再構成して文章にするには、やはり15分では私は書けない。時間がない中で書いているからどうしても粗い文章になっていて我ながら素材がもったいない感じがすることは多いのだが、不思議なことに時間をかけて丁寧に書いてしっかり校正した文章よりも、粗っぽく書き飛ばした文章の方がたくさん読まれることも多いわけで、その辺はなかなか「どういう文章が求められているのか」はいつまで経ってもよくわからない。

ただ、「こういう文章を書きたい」という文章を書いていないと何が届いて何が届いていないかも本当に勘だけで選ぶ結果になってしまって、何をどう向上させたらいいのかが掴めないままになる。なるべく自分にとってベストな文章を書く方が、自分の文章を向上させるためにはいいのだと思う。

***

こちらは土曜日に更新された「2.5次元の誘惑」の話の続き。第122回「業火」のことを考えている。

https://shonenjumpplus.com/episode/316112896845928236

これは日曜日の更新、以下のエントリの続きというか付け足しになります。

https://note.com/kous37/n/nd2cef11631ed

いろいろ考えているうちに、奥村がツバキが怒るようなこと「何かの本で読んだのか」とかをわざと言ったのは、自分の殻の中に縮こまってしまっているツバキの「楽しむ心」を解放する、つまり感情を解放する必要があったからなのだなと思った。

まず、ツバキ自身の心の囚われを指摘し、自由にやっていいんじゃないかと観念の部分の鎖を解く。そして楽しんでいた自分の心を思い出させる。

「楽しかったですわよ!サッカーも…コスプレも!」と。

そして「楽しむこと」に逡巡してしまう常識や固定観念に打ち勝つために、圧倒的な狂気が必要なんだと奥村自身のアツさ(目の炎で表現)を見せ、「君にそれができるか?」と煽る。そして「やってみせますわよ!」と言わせることで楽しむための心の覚悟みたいなものを決めさせる。

書いていて思ったが、雑音の多い現代社会において、「楽しむ」ことにいかに覚悟がいることか、と驚いた。

でも考えてみたら、奥村はリリサの夢を叶える、と覚悟を決め、リリサはコスプレで愛を届けると覚悟を決め、ノノアは友達になってくださいと一歩踏み出す。他のメンバーもそれぞれの覚悟を持ってこの活動に関わって行っているわけで、そこにこの漫画のアツさがあるのだなと思った。

「楽しむ」ことがいかに大変か、ということでもあり、だからこそ「楽しむことの覚悟」というテーマだけでこの作品が圧倒的に成立しているということなのだなと思った。

いろいろ考えてちょっと引きずったが、とりあえずここで頭を切り替えたい。

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