「自分は頭で生きているか」/「人生どうすんだ」

Posted at 22/09/02

9月2日(金)曇り

友達とメッセージアプリで話していて、「自分は頭で生きている人間だから認識したり考える機能が正常でなくなったら生きている意味が感じられない」というようなことを言われて、私はそんなこともないなと思ったのだが、そういうふうにいう人は他にもいるので、自分の感覚が特殊なのかそれとも割合一般的なのかよくわからない。

自分は若い頃、「本当に頭で生きてる人間だな!」と言われたことがあって、その時も「そうかな?」とは思ったのだが、「まあ人からそう見えるならそうなのかもな」くらいに思っていたのだけど、最近はあまりそんなふうにも思わない、というか感じない感じにはなっている。

要は、「考えて自分でこうだと納得できなければ行動できないよね」みたいな話がもともとだったと思うのだけど、実際にそう行動しているかというと必ずしもそうではなくて、猫が横になる前に執拗にその場所を吟味しているのに実際にゴロンとなるのは全然別の場所だったりする、みたいなことの方が自分の感じに近い気はしなくはない。調べているうちに多分嫌になるんだろうと思うのだが。

実際には、「これはこうしたらこうできる」みたいな手順がはっきりしているととりあえずそれをやってみて「実際にできるかどうか」を試してみたいという感じはあり、たとえば東大の受験などでも「こうやれば多分受かるな」みたいな道筋が見えたから実際にやってみたら受かった、みたいな感じはあって、ものすごく強い動機があったとかそういうわけでもないなと今にしては思う。

まあそんなことを考えてみるのも若い人の結婚式に出てみて「人生」という言葉をなんとなく改めて噛み締めてみた、みたいなことがあったからなのだが、「人生」って言葉はなんというかすごくフランス的な手触りの言葉だなと思う。「C'est la vie.」みたいな。百万本のバラをあげたりしたり。

人生なんてわからないことだらけだし、ただ、自分が生きてきた道やこれから生きるだろう道を考えてみても、それを「人生」とはあまり捉えてこなかったなと改めて思って、「人生どうすんだ」みたいなことを今割と考えたりしているので、そんな感じである。

「自分は頭で生きてきた」みたいなことはあまり思わない、というか少なくとも人生の岐路で頭で選んだ感じはあまりないのだが、ただ生活の資を稼ぐために頭を使うこと自体はそんなに嫌いではないのでそれはまあ頭を使ってはいるのだけど、その頭の働き方は「自分がお金を稼ぐ最適な方法」とかではなくて「どう勉強したらその科目の体系が身につくか」というような学習技術的なこととか、「プーチンやっちまったな」とか「統一教会問題にしてもフェミニズム問題にしても日本人暴走しがちだな」とかそういうことを考えたりするくらいで、なかなかそういうのをお金に結びつける頭の働きはなかなかできてないなと思う。

自分はじゃあ、頭に頼らないでどうやって生きてるんだろうと考えてみると、「手探り」「足探り」で生きてるんだなという気がする。手が動いて、足腰がしっかりしていれば、なんとかなるというか。もちろん機能として頭も動かなければ手も足も出ないけれども、手が動き足が動いているから頭も動いている、みたいな感じはあり、頭が自分を支配している、という感じでもない。

だいぶ前に見田宗介社会学をかじった頃に、「目の独裁」という言葉を知り、「眼差しの地獄」みたいな話があったりしたが、目にはもちろん頼って生きているなと思うし、ただ自分の快不快に関しては見て不快なものは目を逸らせば見ずに済むが、聞いて不快な音は耳を閉じても入ってくるので耳というか音の方が影響が大きいなと自分では思う。

今の時代は、直接のコンタクトや実際にそこに行った「感じ」とかよりも、ネットで「情報」を取ることで判断される時代になってきているから、逆に言えば「手触り」「足触り」よりも「コンセプト」が勝負になってきているわけで、そういうのは実はそんなに好きじゃないのかもしれないなと最近思う。「頭でっかち」なのが、昔よりずっと気に触るようになってきているのだよな。

まあそんなことを考えてみたりしている。


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