「世界の終わり」「終末」という感覚の古さと新しさ

Posted at 22/08/21

8月21日(日)晴れ

「世界の終わり」「終末」というようなことを久しぶりに考えたのでちょっとそれについて書いてみようと思う。


「2.5次元の誘惑」の11巻のおまけマンガを読んでいたら、「せかいのおわりにかさをさす」という歌詞が出てきたので、ググってみたら以下の動画が出てきた。

ハチ MV「WORLD'S END UMBRELLA」HACHI


初めて聞いてみたのだが、ちょっと自分の知らない世界だな、という感想を持った。


しかし、「世界の終わり」ないし「世界の終末」というのは「渚にて」以来世界を覆ったわけで、我が国では核戦争の終末とかノストラダムスの大予言とかでそういう「終末」とか「終末後の世界」みたいなものは80年代には時代の気分としてー少なくとも若者の間ではーすごく強くあった。


だからこういう意識、状況設定というのは懐かしい、私なども近しいものを感じるところは強くあるのだけど、ここ10年くらいの「世界の終わり」的な感覚というのは、ある種の「救いとしての終末」のような感じが強い気がして、そのあたりに違いを感じる。私は「今の若者」ではないので彼らが抱えている感覚はよくわからないのだけど。

この世界が終われば、今とは違う世界、穏やかな、明るい世界がある、みたいな感覚。これはジャンプラの「ドラゴンの子」とか「タテの国」とかを読んでても感じる。これは世代を超えた人類の、あるいは日本人の共通感覚なのか。根は共通していて表現やディテールが時代によって違うということなのかなどと考えた。


私たちの世代、つまり1980年代の「世界はどうせ終わるんだ」という「終末」感覚、「世界の終わり」の感覚は、中距離核ミサイル全廃条約や冷戦の終結によって事実上「起こらずに済んだ」。またノストラダムスの大予言で予言されていた1999年7月に何も起こらなかったことによって「世界が終わらない」ことが確認された感じになった。「終わりなき日常」なんて言葉がもてはやされたのも、そういう背景もあってのことだろうと思う。


だからちょっとわからないのは、ここ10年くらいの「世界の終わり」感覚が何に由来するのかということだ。「希望としての世界の終わり」「こんなクソな世界は終わって欲しい」という共通感覚が若い人にはあるのかなという気はする。それはわからなくはない。

例えば安倍政権を支持したりする若者の中では、世界はよくなりそうもないから開き直って今より悪くならないように自民党を支持する、とかの心の働きもあるのかなという気はする。そして私たちの世代はどうなのだろうか。

私たちの子供の頃は、つまり1960年代後半から70年代にかけては、世界は希望に満ちていたと思う。ベトナム戦争が行われ多くの人が死んだり、学生運動が激しかったりしたから若い人から見れば意外かもしれないが、それはほとんどが「世界をよくしたい」という心の現れだったと思う。世界を変えて、よくしたいという革命への憧れは明る未来を夢みてこそのものだし、資本主義側でも「21世紀の未来都市」みたいな想像図がよく描かれていて、世界は良くなっていく、みたいなイメージがあった。

それから数十年生きてきて、世界は良くなりそうになったり(特に冷戦の終わりは大きい)悪くなりそうになったりしながら過ごしてきて、多くの災厄も経験してきたけれども、まあとにかく何があっても生きていくしかない、みたいな感覚に私はなってはいるのだが、やはり生きていく上ではヴィジョンのようなものはあったほうがいいと思っていて、だからそういう「希望としての終末」みたいなものを読んでいるとやはり少し切なさみたいなものは感じる。

「明るい21世紀」を実現できなかったのは20世紀を生きた人間の責任で少しずつあるわけだけど、自然災害に十分対抗できないことであるとか麻原彰晃やプーチンのような怪物を生み出してしまったこととかは、人間にとっての限界のようなものもまあないとは言えないわけで、そういう意味では人間は常に「世界の終わり」がすぐそこにやってくる可能性というものから離れられてはいないのだよなと思う。

ここまで書いていて突然思い出したのだが、80年代と現代の間に「世界の終わり」感の重要なコンテナとしての「セカイ系」というものを忘れていた。


セカイ系、特に「新世紀エヴァンゲリオン」は自分が同時代で呼吸していないので、あまりよくわかっていない。これにどハマりしてた人を近くで観察はしていたけど、自分が「エヴァンゲリオン」をみてはいなかったのでちょっと何を言っているのか意味がわからなかった。

私はおたく的にメジャーなアニメというのは後になって見たものが多い、というかガンダムとはまだ見てもいないのだが、後から見るような付き合い方ではその作品から醸し出される雰囲気が同時代の視聴者の心性にどういう影響を与えたのかは本当にはわからない。

ただエヴァなどは「ノストラダムス」とかとは関連性が低い感じがするし、1999年の後もずっとある世代のトラウマとして引きずられている感じがするから、ああいう終末の感じというのは我々の世代の感覚とはまた違うのかなとは思う。

「新世紀エヴァンゲリオン」を自分が後で見た感じでは終末感というよりは人間関係ドラマみたいな部分の方が印象に残ったし、綾波レイみたいな欠損したキャラクターへの入れ込みというか、世界への思いというよりはもっとフェティシズム的な感覚、世界の加害と自傷とがシンクロするような感じみたいなものが自分の中には残っている感じがして、まあつまり自分の感覚としては「どこがいいのかわからない」という感じはある。

思春期にこれを見ればトラウマとして引きずるだろうなということは理解できるのだが、初見が40を超えていたからある意味影響を受けるのは無理、みたいなものだったのだろうと思う。

私は若い頃は80年代ニューウェーブ系の作品を主に読んでいたけれども、今は割と少年マンガ系のものを読むことが多く、その明るさが好きではあるのだが、作者のモチベーションとして個人に内在するダークな部分というかシャドウな部分というか、諦めとか欠損とか自傷とかそういったネガティブな思いが包(くる)み込まれているところがあるなと気づいた時にハッとする。

最近割と入れ込んでいる「2.5次元の誘惑」も、オタクやコスプレがテーマだから当然暗い部分を持った上でその上に咲いた明るい花、みたいなところはあるのだけど、11巻のおまけマンガのカラオケ大会で奥村が歌っていた「The World's Umbrella」がどんな歌だか興味を持ってMVを調べたらちょっとガンと来た感じがあった。

こうした作品の作者さんたちが本当に偉いな、というかすごいなと思うのは、きっと落ちこみ出したらものすごく深いところまで落ちてしまうだろうに、作品としてものすごくピュアな明るいものを出して来れるという点で、泥の中に咲くからこそ蓮の花は美しい、みたいな感じがあったりする。

しかしそんなことから考えてみれば人類は何千年も昔から死んだ後の世界とかこの世が終わったらどうなるかなんてことを考え続けてきているわけで、そこにまた我が国でまた新たなイメージが加わったとしても、それは一つの文化の事象として捉えておけばいい、という面もあるなと思ったり。

私は自分の中で鑑賞者とクリエイターと批評家と行動者が行ったり来たりしているので、色々なことを考えるのだけど、そのそれぞれの場面でメンタルもかなり違ってくる。フェーズが変わるとさっき考えていたことがわからなくなったりもするから、まあこんなことも書いておこうと思う。

人は忘れる時には忘れてしまうので。

***


なんだか疲れが出てしまって何をやるにも時間がかかる。というようなことをブログを書くまえのウォーミングアップに書いているのだけど、内容と直接関係ないので今までは冒頭に置いていたが後ろに置くようにした。昨日は「鎌倉幕府は何故滅びたのか」を読んでその感想を書こうと思っていたのだが本自体がどこかへ行ってしまって(もう見つけた)読めなかった。夜になってポストを見たら東大出版会「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」(UP Plus)が届いていたので、これを読めばよかったと後で思ったが、夕食を食べて「ブラタモリ」を見たらもう起きていられなかったのでこれはぼちぼち読もうと思う。


今朝録画状況をチェックしていたら昨夜録画したNHKスペシャル「ウクライナ侵攻半年 〜“プーチンの戦争”出口はどこに〜」を見つけたので少し見たのだが、これは対談形式ではなくNHKの独自調査による検証方式だったのでこれもじっくり見ないと内容を判断できないと思い、時間がある時に見て機会があったら書こうと思っている。



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