保守主義の国際性・普遍性ということについて

Posted at 22/08/07

8月7日(日)曇り

今日は立秋。先週の週末は忙しかったので、今日は久しぶりにゆっくりできる日曜の朝。まとまったことというほどではないけれども、少しは何かできるかもしれない。

保守主義について少し書いてみようと思う。

Twitterで保守主義の国際性ということについて書かれていた人がいた。これは多分大事なことで、人はなぜ保守主義に惹かれるのか、ということについての本質がそこにあると思う。

普遍主義というと、デカルトの合理主義に始まる科学主義とか、そうしたリベラルな近代思想的なものを感じるけれども、それは「普遍を目指した思想」であって「普遍的な思想」ではない。こうした考え方は、「遅れた前近代的社会」の中で苦しんでいる人たちにとっては福音となるものであったし、正当性のある部分はもちろんなくはないだろう。

人間社会は一様ではないから、そうした「革命」が必要とされる社会は多分あるだろう。そしてその試みは近代の始まり以来ずっと試みられてきているのだけど、うまくいっていると見えるところもあれば、そのようには見えないところもある。近代普遍主義的な考えというものは、社会によっては採用するのがそんなに大変ではない場合もあるが、結局は難しく、伝統社会を崩壊させることには成功しても、新しい社会を作ることには成功せず、内戦状態になったり治安が崩壊したままになったり、伝統と称するものと近代性と称するものの争いに終始したり、古くからの対立が近代兵器や近代産業、あるいはより有力な諸国の介入によってより悲惨な状況に陥っている場合も少なくない。

しかし伝統社会の中にはある種の一定のルールが形成されていくことによってある種の市民社会が成立していくというある種の普遍性が近代思想による啓蒙とは違う形で漸進的に進んでいく場合がある。これはどんな社会でも起こり得るかと言えば分からないけれども、たとえば日本ではある種の市民社会のようなものが江戸時代の末期にはできていたと思うし、市民道徳のようなものも形成されてきていたと思う。

それは家族の幸福というものだったり、地域社会の安定というものだったり、死に対する安らかな感情であったり、祖先に対する静かな崇敬の念であったり、例えばそういうもので、それにそれを安定させてくれる「国家」という存在を加えれば、例えばエドマンド・バークのいうような「国家と暖炉と墓標と祭壇」という保守主義の価値の源泉ということになるのだろうと思う。

明治維新というものは今後それを支えてくれるのは幕府という日本独自の(徳川家とその家臣が政治判断を独占する)政治形態ではなく、天皇という象徴的な存在を中心とした偏りのない日本国内において普遍的な存在を中心にした、当時の世界標準に則った国家が必要であるという動機によって正当化された革命だったのだろうと思う。

家庭においては「逝きし日の面影」などを読むと本当に子供が楽しそうにしていたという話が幕末に日本を訪れた外国人の印象として書かれているが、もともとそういう社会だったのだろう。家庭内にいわゆる「家父長制」というか「封建道徳」のようなものが持ち込まれたのは明治10年代の欧化主義への反動として現れた明治20年代の儒教道徳の強調期だという話があるが、これは帝国主義時代に向けての国民化の進展みたいなものと関係があり、本来の意味での保守主義とは少し話が違う部分があるように思う。

先祖への崇敬という点では特に農村社会は大事にしてきていると思われるが、ただ一般家庭に仏壇が普及したり、全ての家がちゃんとした墓地を持つようになるのはおそらくは江戸時代ではないのではないかという気はする。

宗教に関しては、日本はキリスト教のような国家宗教の確立には成功していないけれども、擬似的には神道が国家組織化されて国家の祭祀を担うようになったのだが、これによって土地に根付いた信仰が大きな打撃を受けた部分についてはまだ十分に研究されてきていないように思う。

色々な意味で、日本のいわゆる「保守主義」というものはバークの基準に照らすとその基盤をしっかり確立してきていないなあと思わざるを得ないのだが、それは日本国家が明治維新以来走り続けてきたために、自らを見直すタイミングに十分に恵まれてこなかったということが大きいのではないかという気はする。

少し話を広げすぎたが、保守主義の普遍性・国際性というのは、ある種の市民道徳やある種の常識のようなものが市民社会において共有されているという現象が違う成り立ちの国であっても見られるということだと思う。

https://twitter.com/konoy541/status/1555954453723123712

清水幾多郎が言うように、伝統的な「市民社会」に生きる人ならばこういう「礼」のようなものは自然に身についていた。それが躾というものだったわけで、その普遍性が保守社会の国際性というものなのだと思う。

市民社会の譲り合いとか相手や家族の尊重という共通の価値観みたいなものはある程度は普遍的なので、「世間様に出しても恥ずかしくない」という価値観はある程度成熟した社会にはあるわけで、それは「おもてなし」というような大袈裟なものではなくて、当たり前のことなんだと思う。

私は子どもの頃にあまりちゃんとした躾を受けてない時期があるので、自分の振る舞いにあまり自信が持てないところがある。モールで騒いでる子供とかみると将来大変だろうなあと思ったりするのだが、そういうのはある程度自分の痛みでもある。

市民社会で本当に羨ましい光景というのは、子供が朗らかに振る舞っているけどうるさい感じにはならないという感じのしつけの行き届き具合が少なくとも公共の場では見られるという感じだなと思う。普段抑圧されている子供は公共の場に出ると親を困らせるためにわざと騒いだりする。「逝きし日の面影」の世界のような、子供の幸せな世界がある種の保守主義の理想だろう。

若者が反抗的だったり奇矯な行動をしたりするのはある種反抗期の延長線上だし若者の特権というか社会の変化に必要な力ではあるのだが、大人がそれを持て囃すばかりでは困るというか、「若者を持ち上げる大人は基本的に胡散臭い」という事実が忘れられてると思う。リベラルな人たちは若者を煽って政治参加させようとしているが、祭り上げようとしている意識の高い若者は、若者の支持も得られない。

いくつかの問題について書くと、一つは「家族」のこと。

以前友人に誘われて生長の家のイベント的なものに出たことがあるのだが、「とても和やかな雰囲気」を感じた。あの「和やかな雰囲気」というのは基本的に「品のいい中流以上の家庭に招かれた時の出過ぎない和やかな感じ」というものだったなと思う。これはキリスト教福音派や「世界家族会議」の集会のレポートに感じられる雰囲気と似ている。話し合われているテーマやノリは戦闘的だったりもするようだが、守りたいものはそういうものということなのだろう。

統一教会は関わったことがないので全く分からない。

保守派とはこういう「ファミリーの暖かさ」や「地域社会のしっかりした感じ」が基本的に基盤なのだと思うし、リベラルが標的にしているのはそこを壊すことだから、それはなかなか支持が広がらないだろうなと思う。

これは「田舎の保守性・閉鎖性」とかとは本質的に多分別のものなのだが、混同されやすいのは確かだ。

「田舎の保守性」というものがどのようにできたのか、ということを考えてみると、「荘園」を読んだ時に思ったのだが、室町時代くらいになってくると農業を基盤とした地域社会・郷村制の村落というものが割合しっかりしたものになってきている。その中で「惣村」と言われる形態が出てくるわけだが、これはつまり村落の独立性というものを荘園領主や大名に認めさせるということだろうと思う。

農民たちが村を中心として結束して権力に対抗するということは団結とか裏切らないということが重要になってくるわけで、それはつまり排他性ということにもなる。村の排他性の起源というのは村落の独立性の主張ということに恐らくはあるのではないかと思う。

その限りでは構成員もある程度の平等制があったとは思うが、村というものが権力支配の末端機構に位置付けられていくと、村は有力者を中心にして再組織され、ある程度の独立性は排他性を持ったまま、いわゆる前近代的な村落の因襲性・閉鎖性みたいなものが形作られていったのではないかと思う。

近代になって、農民の商業活動が活発になるとともに貨幣経済の浸透と不況、地租改正などによって寄生地主性が成立するなどより「封建」性が高まった、という面はあるだろうし、資本主義の新党に対して閉鎖的な共同体を守ろうとする動きが余所者排除や出て行く者への攻撃につながるようなこともあったのではないかと思う。

生産共同体でもある農村や大家族は、都市の経済的には独立している市民・小市民の社会とは成り立ちが違うので結束が、逆に言えば束縛が強いのはある程度はやむを得ない面はあるのだろうと思う。

保守主義の目指しているものはこうした農村の生産共同体的な姿ではないだろう。日本の田舎の保守性というのは労働集約的な日本の米作り農業の形態による部分は大きかったのではないか。

こうしたコメづくりの伝統というものをどのように考えていくのかはそう簡単ではないのだけど、社会構造的には「農地や農業設備の維持」ということには共同制でなければ行政や地域に腰を落ち着けた企業が出ていかなければ難しい面があることは言えるので、日本的な環境での農業ビジネスはいろいろ難しい面は大きいのだが、山林や農地が国土を守っているという面もあり、この辺りはある程度行政がイニシアチブをとってやっていく必要があるところはあるだろうと思う。地域社会の強さにはかなり濃淡があるので、行政の介入を嫌がる地域もあるし全く無関心になってる地域もあるだろうと思われるので、かなり難しい仕事ではあるのだが。

そういうこととは別に、「家族を大事にしたい」「人と人とのつながりを大事にしたい」という共同性重視の姿勢が保守主義のバックにはあるのだと思う。そしてそういうものは基本的にはどの民族・どの社会にもあるから、「保守主義の普遍性・国際性」というものはある意味自然に存在するわけだ。

結局は「個人中心主義」と「共同性重視」のどこでバランスを取るかの問題になってくるかな訳だけど、最適解はまだこれから見つけていかなければならないのだと思う。また人々の連隊のレベルも、感情的なレベルだったり利害関係だったり「リベラルな意識の高さ」だったりするのだけれども、「お互いを尊重しあうべき」というそういう意味での意識の高さは、国際的に保守主義の輪が広がっていく上では重要なことだろうと思う。


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