表現の自由と表現規制に関する一考察

Posted at 22/07/27

7月27日(水)雨

表現の自由について朝少し思ったことをツイートしたのだが、マガジンを買いにコンビニに行き、そのついでに湖や山麓の方までドライブしながら、いろいろ考えたのでそれをまとめておきたいと思う。

Twitterを見ていると、赤松健氏のいうところの「行き過ぎたフェミニズム」=ラディカルフェミニズムが猖獗を極め、フェミニスト同士の焼き合いが始まっているようなのだが、表現自体がなぜ焼かれるようになったかというと、「焼いている側が表現者ではない」という新しい事態だからなのではないかと思った。

なんのかの言っても今までは発言する側に自らも表現者であるという意識がある、つまり自分もいつ焼かれてもおかしくないという意識があったが、今の表現規制派はそういう意識が薄い感じがする。つまり自分が焼かれることは全く考えておらず、自分が焼くことしか考えてない。

考えてみると表現規制を主張する側の人の研究などを調べてみると、女性が表現をどのように楽しんだかとか受け入れたかみたいな表現を見せられる側、消費する側の気持ちの研究などに特化しているようだ。それは考え方が「表現を消費する=受け取る側が表現を生産する側をどう飼い慣らすか」みたいな問題意識が感じられて、つまりは畸形的な形ではあるが、これは「消費社会の落とし子的な現象」なのだなと思った。

表現規制問題は表現の場における消費者側の「お気持ちの専制」の暴威と、それに対する表現者側の異議申し立てという構図になっているわけだ。これは「消費こそが個性である」という「消費社会の成立」があってこそのことなのだなという感想を持った。現代社会になる以前は表現の規制とかは政治権力とか宗教権力とかがやることだったわけで、消費者の側が運動を起こすというのは消費社会に特有の現象だろう。

考えてみると、表現者=生産者というのは歴史的に見れば地位は高くなかった。「(表現の)生産者には生産者のプライドがある」ということが認められるようになったのは西欧社会においてはルネサンスあるいは産業革命以来、の近代的な現象だと考えていいだろうと思う。日本においては文化的に生産者が昔から尊重されてきた社会だとは思う。誰の作、というのが前近代から権威を持っていて、だからこそ民芸のような無名の作者の作品が尊ばれたりしてきたわけだが、いずれにしても作品を享受するのは消費者側であり、特に特権的な支配者層がその権力の小道具として楽しんできた面があったわけだから、消費者が表現者を規制しようというのはある種の前近代的な反動と言える部分はあるだろう。

私自身は、「表現規制を主張する側も表現者のはず」という意識があったので、なぜ規制を主張する側が自分たちの首を絞めるようなことをするのか理解できなかったのだが、自分たちが表現者ではなく消費者であり、気に入らない表現によって「傷つけられる」側、つまり「迷惑施設が近所にできて自分たちの土地の資産価値が傷つけられると憤慨している高級住宅地の住人」のような意識があるのではないかという気がする。

自分たちが表現者であるという意識があるなら、そこに「表現者同士の交渉」が可能になるわけだが、「共通の利害がない」のであれば全か無かの争いになってしまうわけで、生産的な争いにはならいないし、もともとそれが必要だと思ってはいないようにも見える。

表現というものは生産行為だから、要は届ける先、消費者に受け入れられれば業として成立するし、受け入れられなければ成立しない。もちろん受け入れられなくても業としてでなければ(つまりある種の趣味として)作り続けることはできるが、届かない表現は作品自体に未熟であるというような弱点であるとか作品を届ける仕組みの方に問題があるかであり、いずれにしても届ける側と受け取る側の交互通行を成り立たせるのはそんなに簡単ではない。

表現を規制する側はそこのところに対する理解は少ないというか、自分たちの主張が受け入れられないのは受け入れる側が悪いというようなスタンスに立ちがちであることはよく観測される。このことも、彼らが自分自身が表現者であるという意識は持っていないのではないかと思われるところである。

表現者というのは、たとえ権力側の表現者であっても、本質的に反体制・反権力なところがあり、権力者から見限られれば終わりだし、そうなると今までの発言が全て糾弾の対象になることも多い。ショスタコーヴィチなどが良い例だが、逆に言えば彼を弾圧した共産主義国家はとうに崩壊しても、彼の表現はいまだに生きていて、その事実が共産主義国家の崩壊をある意味批評している=嘲笑っているわけであり、そうした意味であらゆる表現は「芸術は長く、体制は短い」という点において反権力的であると言えるだろう。

表現を規制する側はだから自分たちが表現者でありたいと思っているわけではなく、「何を許可し何を許可しないかの大審問官の地位」が欲しいのだろうと思う。そういうものが存在すること自体が表現の自由、つまりは「思想信条の自由」にとって致命的であるということを、自覚してやっているのか無自覚なのかはわからないけれども。

しかし彼らの戦いにはある種の悲壮感というか、理解されない悲しみのようなものを感じる部分がある。彼らも、主観的には自分たちは正義の孤独な戦いをやっていると思っているのだろうと思う。この稿のように事実をなるべく客観的に分析して、こういうことなのではないかなと解釈を書いてみたりすると、よく受ける批判は「冷笑主義」というもので、こちらは全然そんなつもりはないので面食らってしまうわけだけれども、彼らの主観的な考えからすれば中島みゆきの

ファイト!戦う君の歌を
戦わない奴らが笑うだろう

という歌詞の、「嗤っている戦わない奴ら」のように見えるのだろうなと思った。そのように主観的に相手を決めつけるようでは末期症状だと思うのだが、どうも最近はそれより先に進んでしまっているようにも見える。

表現規制の問題に関しては漫画家の赤松健氏が参議院議員に当選し、すでに活動している山田太郎議員とともに大きな力になってもらえると思うけれども、表現の自由と規制をめぐる問題の本質についても、いろいろな面から深めていけると良いと思った。

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by Luke Peterson

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