「学問的真実」と「人の「好き」を尊重すること」

Posted at 22/07/24

7月24日(日)晴れ

先週はいろいろ忙しかった、というかその前の週末も忙しかったので、2週間ぶりにようやくゆっくりした時間という感じなのだが、いろいろと疲れが出ていて頭も体もあまり動かない感じがある。腹の調子がこのところあまりよくないのだが、少しはマシになるだろうか。

昨日は久しぶりに若い人たちといろいろ話をして、この辺りの世代(30代くらい)の一線で仕事をしている人たちと話をするのは刺激的だなと改めて思ったのだけど、普段はなかなかそういう機会がないのでいろいろ面白かった。太陽光ビジネスのやばい話とかロシア関係の困ったこととか、まああまり書けないけれども、ニュースやTwitterなどではなく生でそういうことに関わっている人の話はやはりいろいろと考えが刺激されて面白いなと思った。

Twitterを読んでいたら、歴史学者の人が歴史好きの女性のツイートを批判して、そちらの人が反論する、みたいなやりとりがあったらしく、というかそういうバトル的なものは昔からずっとあるわけだけど、今はSNSなどで直にぶつかるようになっているだけに、そういうところが注目されやすくなっているのだろうなと思った。

歴史学というのは特に戦後は史料批判に基づいた「実証主義的=科学的」な学問であるというプライドを、特に日本史の人は強く持っているのだが、まあそれは戦前の国史学が皇国史観的なものに走った「反省」みたいなものからきているのと、なんというかある意味「歴史学こそが文系学問の王様」的な考え方みたいなものを持っている人が割と多いということがあるのではないかという気がする。これはフランスではブローデルなどが力を持っていた時代に「歴史学帝国主義」と批判された面でもあるのだが、「歴史」は「史実」を追求し、「国民の歴史観」を涵養する学問であるから、特別なのだ、という意識はまあ持ってる人は持っているのではないかと思う。

問題は、言葉の端々にそういうプライドからの上から目線が感じられることで、これは例えば考古学や文献学・民俗学などの歴史学に近縁した学問に対して発揮されることもあるし、政治学や経済学に対しても史料探索の膨大さから徹底的に反論を加えることもあったりするので、ある種の排他性を感じさせるところもあるのだろうと思う。

しかし実際のところ、中学や高校の先生、図書館の学芸員などの人を中心とした郷土史科の研究があってこそ地方史料が研究されうると言う部分もあり、これは考古学などもそうなのだが、結構内部でのバトルのようなものもなくはなかっただろうと思う。

ましてや一般の歴史ファンの言うことなどは歴史学者ははなから相手にしてこなかったわけだが、最近はSNSでダイレクトにお互いに言葉が飛び込んで来るようになったから、相手を完全に無視するわけにもいかない、と言うような状況が出てきているような気がする。

歴史学者が気にしているのはそれが史実として確定しているかどうか、最新の研究ではどのように理解されているか、などの学問的な視点でのことであるわけだが、一般の歴史ファンが望んでいるのは「その人物がどう言う人物であったのか」「その行動の裏にはどう言う思いが隠されていたのか」などの部分を、フィクションの部分まで含んで楽しみたい、最近では「消費する」などと言われているが、要は「自分が好きなものを肯定し、それを愛好し、愛玩したい」と言うことなのであって、同じことに対する姿勢が全く異なると言う問題がある。

学問というものは「わからないことはわからないと書く」ものであり、ドラマというのは「わからないところは自由に想像して捜索する」ものである以上、そこで一致しない部分が出てくるのは当然であって、これは塩野七生の歴史解釈を含めた創作について以前書いたことがあったのだけど、歴史学者の側は「なるほど、それはちょっと史実とは違うしそういう可能性はあまり考えられないけど、ドラマとしては面白いね」くらいの感じで「軽く」受け止めておけばいいと思うし、塩野さんも「昔の大先生たちは私の書くものを面白がってくれた」と言っていたけれども、最近はそういう余裕が歴史学者の側にないような感じはある。

その辺、いろいろ考えたのだが、これはどういうことかよくわからないのだけど、どうも最近の学者には「創作の豊かさ・面白さを尊重するというところがなくなってきている」ということなんだろうと思う。

塩野さんの例で言えば、カエサルの人物像とかについて書いた時に、その解釈は間違っているとかそういう間違った解釈を広めるからこっちが迷惑する、みたいなことをいう学者が結構いるのだという。これはつまり立場が逆転してしまっているからで、「大作家・塩野七生(大作家・司馬遼太郎でもいい)がいうのだから本当なのであって、名前もよく知らない木端学者のいうことなど取るに足りない」という考えの人が出てきてしまっているということでもあるのだろう。

つまりは、「学問の権威」みたいなものがすでに「人気作家の権威」に劣るものになってきているからで、これは学者個人や作家個人の問題というよりは、「学問は(一応)尊重すべきもの」という常識のようなものがだんだん成り立たなくなってきているということにあるのだろう。

これにはいろいろ理由があると思うが、そこまで考察するとかなり複雑になるのでこの件はまたの機会にしたい。

もう一つは、一般の文化風潮として、「その人の「好き」を尊重すべき」という考え方がかつてなく強まっているということがあるのではないかと思う。

これはマンガ「2.5次元の誘惑(リリサ)」の主人公・奥村のポリシーとして出てくるのだが、「自分はオタクとして、自分の「好き」を尊重するように、人の「好き」も尊重したい」という言葉がある。

これは美食家として知られるブリア・サヴァラン(1755-1826)に「あなたが普段から食べているものを教えて欲しい。あなたがどんな人であるか、当ててみせよう」という言葉があるが、つまりは「何を食べるか、すなわちどういうものを好むのか」は、つまり「その人の「好み=好き」はどういうものかということこそがその人そのものである」という人間観であると考えて良いと思う。

「好き」が尊重される世界というのは、逆に言えば「好み」が厳しく問われる世界でもあり、その評価も厳しいものであるだろう。「2.5次元の誘惑」はコスプレを題材にしたマンガであり、オタクの高校生たちがオタクライフを楽しむ内容であると共に、有名コスプレイヤーたちが自分の維持と信念をぶつけてコミケ会場で火花を散らし、たくさんの賞賛を浴びると同時に心ないdisも集中する、その中で自分の「好き」を貫いていく、という内容でもある。

つまりは、歴史家が史実性や信憑性、最新の研究で何が支持されているかなどに死活的な重要性を感じているのと同様に、歴史が好きな女性たち(女性に限らないが)もまた、自分の「推し」についての評価がある意味死活的に重要なのであって、「基本文献も読んでいない女子供が大家である自分を批判する」ということの意味を取り損ねているのではないかという気はする。

まあ本来違う界隈であるべきものが話題が同じために衝突してしまう悲喜劇だと言ってしまえばそれまでなのだが、学問や運動に関わる人は特に「好き」は侮るべからず、ということを意識してもらえるといいのではないかという気はする。

これは意識高い人たちから見たらコミケに並ぶオタクと猟奇的殺人犯が同じ範疇に見えたように、また元首相狙撃犯とカルト宗教、オタク界隈を同一視している人たちがいたりするけれども、オタクはすでに別の沼にハマっているのでカルトにハマる余裕がないのが普通であり、その辺はちょっと見方が雑すぎるだろうと思う。

逆に、若手のオタクはともかく、古参のオタクは宮崎事件以降の嵐のような迫害にも耐え抜いて自分の好きを貫いてきた人たちだから、妙に研ぎ澄まされているのは当然で、フェミニズムなど新種のカルトにしか見えないだろうし、「好き」を弾圧しようとする勢力に対しては命懸けで抵抗していくのであまり敵に回さない方がいいと思う。

しかしまあ、これは最終的にどちらに譲歩しろとかそういう問題でもないし、SNSで揉めたりしているうちが華なのかもしれないなという気もしなくはない。

学問的真実を追求するのも大事なのだが、「好きを侮るべからず」ということもまた、尊重されていくべきだろうと思う。

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by Luke Peterson

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