「不満がある」「落ち込んでいる」と「課題がある」:同じことだがどちらの捉え方が良いのか

Posted at 22/07/21

7月21日(木)曇り/晴れ

なんとなく納得できないという燻った感じがここのところ続いていたのだが、そういうところに軽いアクシデントがあって、かなり感情的に混乱したりしたのだが、あることに気がついてだいぶ改善されたということもあり、今日はちょっとそのことについて書いてみたいと思う。

結論から言えば、「不満がある」とか「落ち込んでいる」という状態を認めることによってそういう状態から脱せることがある、ということなのだけど。

世の中にはポジティブに考えて行動すればいいという考え方(ポジティブシンキングとかいう感じのものですね)があり、そういうことについて書かれた本も結構売れているわけだけど、まあそういうものには副作用があるよね、みたいな話なわけだ。

私なんかもそういう「ポジティブ病」にかかっているところがあるのだろうと思うのだけど、「不満がある」とか「落ち込んでいる」と認めたくないところがある、というか自分で見ないようにしている、気が付かないようにしているところがあって、それは良くないなと思ったのだが、どうしてそうなっているのかについては多分ちょっと複雑なので、考えてみようと思ったわけだ。

もともと自分は子供の頃からすぐネガティブな方向に考えてしまう傾向があったから、高校生になった頃からどうしたら前向きに行動していけるかみたいなことはずっと考えてきたということがまずある。高校生の頃はとにかく積極的に行動しようと思って髪の毛を伸ばしたり積極的に友達を作ったり女の子に話しかけたりギターを弾いたりなんてことを勉強したり好きな歴史や天文の本を読んだりしながらやっていて、まあうまくいったり行かなかったりしていたわけだ。ポジティブ病というのはある意味その頃からなんだろうと思う。

高二の頃から、色々な本を読んだり人と会って話をしたりして「ものの考え方」についていろいろ考えるようになっていた。「不満がある」と認めればその状態から脱せるんだ、というようなことに気がつけた一つの理由は、自分がもやもやした気分になっているときに、「なんで自分はこう思っているのか」と考える習慣がついているから、というのはあるなと思った。

それは「反省して」「こうしないようにしよう」みたいなことではなくて、というかそういうことをやると返って自分の気持ちの真実から離れてしまうことがよくあり、そうではなくてまず自分がこういう感情を持っているのはなんでなんだろう、みたいなことを考えているうちに、「ああ自分は不満を持っているんだ」とか「落ち込んでいるんだ」という状態そのものになっているという事実に気がつき、その事実を認められるようになる、ということによってそれを受け入れ、ああ、自分は不満なんだ、と思うとじゃあなんかやってみるか、と前向きな気持ちになる、ということだ。

最近でも忙しいと不満に気が付かないでいることがよくあって、とりあえず頑張ってはいるんだけどどうもなんかどこかおかしい、みたいな感じになっていて、そこでアクシデントが起こると冷静さを失う、みたいなことがある。今回もそのことについて考えているうちに「ああそうか、自分は不満があるんだ」「このアクシデントによって自分は落ち込んでいるんだ」ということに気がついて、返って冷静になり、気持ちの余裕を取り戻して自然に動けるようになり、動いているうちに気分も改善していく、みたいな感じになった。

なんかうまくいってないがそれがなぜなのかよくわからない、何か気分が悪いがこれがどういうことなのかよくわからない、と思いながらとにかく前向きに努力するのだが、気分の悪さは改善せずにうーんと思いながら日々を過ごし、アクシデントが起こって落ち込む、みたいな感じになっていた。

それはつまりどういうことかというと、自分が沼の中で暗中模索というかとにかく頑張ってみていても、光が見えない感じだけどとりあえず前向きにやってればなんとかなるだろうというポジティブ信仰があるからなわけで、まあそれ自体は悪いことばかりでもないのだが、ネガティブな自分を認めない、どころか気が付かないという状態になってるということでもある。

そういう自分、ネガティブな気持ちを持ってる自分に気がつくということは、つまり自分を客観的にみられるというか、自分の気持ちをある意味外から見ているということで、見ている主体も自分だから、「不満がある」という言葉を鏡にして自分の心の状態を名付けられる、というふうに言えばいいだろうか。

演劇をやっているときに、良い演技者というのは自分の演技を外から見られる、という話があって、私はこの考え方が好きで自分がどう見えているかを常にイメージを持ちながら演じていた。実際に後でビデオを見てみると思っていたのとは全然違っていたりはするのだけど、「外から見ている客観的な自分」のイメージを持って演技をするというのは大事で、そうなると演じている自分の方も見られているという安心感によってより力が出たりするという感じだった。

自分が「不満がある」ということに気がつくというのは客観的に見ているというより「不満を持っている自分」が「ああ、不満があるんだ」と軽くびっくりする、みたいな感じがあって、「ああそうだったのか」、という納得感があったりする。

で、ここまで書いて「ああそうか」と気がついたのだが、つまり「納得する」ということが大事なのだ。「自分は不満を持っていたからこんなふうに気分が悪かったんだ」と納得すると、その気分の悪さが割と解決するということなのだな。だって不満だったんだから。

納得によって不満というか気分の悪さは解消するので、その不満を課題と捉えてじゃーどーしてやろーかなーなどと考える気になる。納得感を持って爽やかな気持ちになると割といいアイディアも出てくるもので、そこで本来の意味で前向きに取り組めるようになる。

まあこういうところに書くときは「不満がある」というより「課題がある」というふうに書いた方が客観性もあっていい感じだし、人に説明する、プレゼンするときには「こういう課題があります」というけれども、まあつまり実際には同じものなのだよな。

それを自分の中で捉えるときに、「課題がある」と思っていた方がいいのか、「不満がある」と思っていた方がいいのかは人によるだろうなと思う。「不満がある」と思っていた方がエモーショナルなパワーが出て動ける人もいるだろうし、「課題がある」と客観的に捉えておいた方がロジカルに解決しやすい、という場合もあるだろうなと思う。

しかし、自分の中で考えているときは、どこが不満なのか、どこが納得できないのか、というように考えた方が感情を利用したサーチができるのでその方が自分にとって結果的に満足度の高い思考ができるような気はする。まあそれも人によるかもしれないのだが、先ほど書いたように不満があると分かっただけで気分が改善するということが自分にはあるので、まあ自分の場合はそっちの方がいいかなというふうに思ってはいるわけである。

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