米最高裁のpro-life判決と日本の反応/「宝石の国」の仏教的背景

Posted at 22/06/26

6月26日(日)晴れ

今週も忙しかった。私は土曜まで仕事なので土曜の夜にようやく一息つける感じになるのだが、最近は夕食の時に赤ワインを小さめのマティーニグラスで飲んでいて、これはまあ適量を飲むための工夫なのだが、このくらいの量で飲むのが今の自分にはあっているなあと思う。多めに入れて飲もうとすると飲みきれないが少なめで少しずつ飲むと結果的に割合飲むという感じ。それでも一本のボトルが開くのに結構何日もかかるので、本当にワインが好きな人の飲み方ではないんだろうなと思う。

昨夜は10時には寝てしまい、起きたら4時。6時間寝たわけだから最近にしては眠っている。赤ワイン効果か。ただ、夜中に一度ふくらはぎが硬直して痛くて起きてしまったのだが、普段は一度入浴してほぐすのだけど昨夜は痛みがおさまったのでそのまま寝た。起きた後も張りは残っているのだが、まあその程度の体の不具合は身体中に何箇所もあるので、あまり気にしないで動き始めた。

昨日は朝食の後に駐車場の草刈りをしたのだが、これがまたかなり生えていて電動の草刈り機で結構作業をしたのだけど、こういうものは石垣のヘリとか植木の周りなどはうまく刈れないわけで、そのままになっていたところが気になったので、今朝は草刈り鎌でそういうところを少し刈った。気温は20度を下回らないのでかなり高いのだけど、薄着で作業すると温まるまでは割と涼しい。切り上げて部屋に戻ってブログを書く作業に移ったのだが、そうなると汗が出てきて、人間の身体というものはまあ、こちらの思うようには動いてくれない。

それにしても、当地は爽やかで、夏の朝というものはこういうものだなと思ったりした。

昨日のニュースで大きかったのは、アメリカの最高裁判所が中絶を憲法上の権利として認めた1973年のロー対ウェイド判決を取り消し、中絶の規制は州の判断に任せられるという判決が出たということで、アメリカや西側世界ではかなりのニュースになっていて、リベラルな人たちは騒いでもいるけれども、私のタイムラインは静かだ。これはまあ、日本では「中絶の権利」というものが左右対立の根源にはないということを意味しているわけだ。そして「女性の権利の一丁目一番地」として中絶の権利を主張するフェミニズムが日本であまり広がらない大きな理由の一つでもあるだろうと思う。

中絶に関しては反対する宗教ももちろん日本にはあるし、日本のフェミニズムの元祖みたいな「中ピ連」というのは「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」の略だったが、ピンクヘルメットみたいな風俗的なものとして捉えられる部分が多く、日本ではむしろそういうものが「権利」として捉えられにくく、対立が大きく広がることはなかった。「私作る人、僕食べる人」みたいなものに対する言論規制・表現規制のイメージでフェミニズムは捉えられてきたことの象徴的な現象だろうと思う。

日本ではもともと経済的理由による妊娠中絶というのが認められてきているわけで、右派的な宗教も法としては反対するが個々のケースについてはケースバーケースが多かったようには思う。高校生の妊娠などはやはり「育てる、通学するのが無理」という理由で中絶というケースが多いだろうし、最初から権利というよりは社会の中である種「良いことではないがやむを得ないこと」のように受け止められてきたのだと思う。

逆にいえば、日本ではアメリカなどに比べ、妊娠中絶に対する宗教的な圧力が弱かったから、それが問題化することはあまりなかったということになる。だから、アメリカ最高裁でこのような判決があっても、基本的に自分と関係ないという感じになるのだろう。自分のタイムラインには右側の人が多いのだけど、例えばトランプ政権を支持していた人が今回の判決を「我々の勝利!」と欣喜雀躍しているかといえばまあそんな人は見受けられないし、せいぜいアメリカ司法の保守化を寿ぐぐらいだろう。

つまり、日本の「右派」「保守派」というのは、アメリカの保守派のメインストリームである「宗教右派」とは基本的にあまり関係ない。左翼が気に入らないからアメリカの保守思潮を支持する、という感じで保守を称していても、アメリカ保守が喜んでいるのを見ても「お、おう」という感じなのはまあある意味滑稽な感じもする。

この裁判の対立、つまりpro-life(中絶の権利に反対しいのちを守る)かpro-choice(中絶の権利を女性の権利として主張し女性の「選択の権利」を守る)かというのは、「いのちを守れという聖書(だけでなく多くの宗教)の教え」を取る「宗教的な人間」であるか、人間を近代的個人と見て宗教的な抑圧から人間を解放し、全てを個人の責任のもとに選択していく権利を持つと考える「倫理的な人間(仮)」であるか、みたいなところにあるのだと思う。

で、日本人の多くは「宗教的でもなければ倫理的でもない」ので、あまりこの対立に関係ない、ということになるのだと思う。宗教を取るほど堅苦しいものを好むわけでもないが、自分で全部の責任を引き受けるほど倫理的でもない、といえば良いのだろうか。Twitterで論じられているフェミ対アンチフェミの議論を見ても、アンチフェミが宗教的ということはなく近代的な論理でフェミの倫理的な弱さを突き、フェミ側も倫理的な自立性を主張するより女性は保護されるべきというある種のパターナリズムによりかかった主張をする人が多くて、アメリカなどの議論に比べると疑似的な感じが強い。

私自身のことを考えると、子供の頃は周りには左派的な人が多く、その影響を強く受けてきたなと思うし、大学時代にも反天皇制の人やフェミニストが多くて、まあそういう人たちと付き合ってきたのだが、1995年の阪神大震災とオウム真理教事件の社会党内閣の対応能力のなさを見て少なくとも政治的には左派的なものに見切りをつけ、その後は保守や右翼というものを自分なりに調べて吸収していくような感じになっていた。もともと歴史や神話が好きだったというのもあり、周りはどう言おうとそういうものを子供の頃から好んでいたので自分の思想の真奥にはそれほど左派的なものが影響しなかったのかなという気はする。

まあそういうわけで私の保守の立場というのは自分で「選択した」ものであるわけだが、それでもこういう中絶の権利に関する判決の問題とかに反応するくらいには、自分は思想というものに振り回されてきたなあという実感がある。タイムラインの反応の薄さに対しては、自分ほど振り回されないできた人が多いのだろうなあという気持ちにはなる。

宗教的な人間か倫理的な人間かということで言えば、私はまあ、どちらかといえば宗教的な人間なのだろうと思う。哲学も面白いし現代の世界や論理がそちら側で回っていることは確かだから勉強もしないとな、とは思うけれども、定期的に宗教的なものの方に引っ張られる感じがある。その分カルトとかスピリチュアルなものに対する警戒心というのも結構あって、オウム真理教が「持て囃される」前に(1980年代後半には今から考えたら驚くけどマスコミでも好意的に取り上げられていた)麻原彰晃の空中浮揚のポスターを見てゾッとし、「この団体は危険だから絶対に近づかない」と思ったことがあるし、スピリチュアル的なものも結構面白がってはいたが、それこそ自分の「選択」の埒外に行ってしまいそうなところまでは深入りしないという気持ちを強く持っていた。そのスタンスは今でもあまり変わらない。

宗教的なものをもし実践するのなら、そういうものよりは伝統宗教の確立された方式の方が間違いが少ないと思うし、何か起こった時の対処(いわゆる座禅病みたいなものとか)もある程度用意されているということもある。マインドフルネスとか宗教よりのものがそれなりに持て囃されてはいるが、どこまでフェイルセーフが用意されているのかというところが心配になる部分はある。

まあそのようなことを考えていたりしたのだが、このアメリカ最高裁判決とまさに同日に、アフタヌーンで「宝石の国」の連載が再開された。これに関連してタイムラインに作者の市川春子さんの2014年のインタビュー記事が引用されていて、自分が読んでいなかったことにちょっと驚いたのだが、読んでなるほどと思ったことがあった。



この記事を読んで驚いたのだが、市川さんは仏教系の高校に通っていた(入るまで知らなかったようだけど)ということだった。

市川 授業でも、普通の高校だと「倫理」という科目があると思うんですけど、それにあたる科目が「仏教」で、親鸞の勉強を三年間しましたね。
 その授業の時、仏教の教典のひとつに『無量寿経(むりょうじゅきょう)』というものがあることを知りました。その一節に、「西方極楽浄土は宝石でできている」と書いてあるんですよ。極楽浄土の地は宝石でできているらしいんです。

—— その話、もう少しくわしく聞かせてほしいです。

市川 「無量寿」というのは、「はかりしれないほどの光」といった意味です。根源となる仏の教えが書いてあるんですが、極楽浄土がいかに華美で荘厳かについて描写されているんですよ。
 そのお経を高校在学中ずっと読まさているうちに、「極楽」と言われる“すべてのもの”が助かるような所でも、宝石は装飾にしかならないんだなとぼんやり思いました。

この煌びやかな世界を高校の時から知っていたというのは、なんというか市川春子さんにとってはある種の英才教育なんじゃないかと思ったのだが、市川さんの作品に仏教的な背景があるとは思っていなかったので、これはかなり衝撃を受けた。というか、マンガやアニメを見ていればわかりそうなものなのに、と思って自分の不明に衝撃を受けたと言えばいいだろうか。

それにしても、「はかりしれないほどの光の世界」においても、「宝石」は「救われる」ことなく、装飾にしかならない、という発想は「鉱物愛」の凄い(これだけ鉱物について語られたマンガが今まであっただろうか)市川さんならではの発想だなとこれも衝撃に近い感銘を受けた。

市川春子さんの作品は多分全部持っているのだけど、最初の「虫と歌」は好きだったが2作目の「25時のバカンス」がかなり難解な印象を受け、世代的な感覚の違いなのだろうかと思ったりしていたのだが、むしろそういう仏教的な背景みたいなものから読み直してみた方がいいのではないかと思ったりした。

時間があったらこの2作品に加えて「宝石の国」も全て読み返してみたいのだが、とりあえず今日は時間がないのでここまでのことを記しておきたいと思う。

まあつまりなんというか、自分なりの答えもまだ、ないです。

***

ちなみに、このインタビュー記事はcakesの終了に伴って今後削除されることになっているので、私はPDF化して保存した。こういうものは残してもらえるといいのになと思うが、企業がやっていることなのでなかなかそうもいかないのだろうなと思う。



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