ロシア中国とアメリカ日本のネガとポジ/誤作動で思い出す父のこと/若さとともにある短歌/「運命」が苦手なことと侵攻当日モスクワにいた指揮者の考えたこと

Posted at 22/06/04

6月4日(土)晴れ

昨日は概ね悪い天気ではなかったが日中大粒の雨がパラパラと降ってきて、風もあり、どこかで荒れた天気になっていてその影響がこのあたりでも出たのかなあという感じだった。昨日は6月4日の天安門事件について少し書いたけど、ネットなどを読んでもそのことについて言っている人はほとんどいなくて、「権威主義体制」という言葉は当時そんなに確立はしてなかったと思うが、今日巷間そう言われている体制の一つの象徴的成立の事件として捉えておくのは間違っていないのではないかと思う。ついでに言えばロシアも現在んプーチン体制が1998年以来23年間続いているが、この成立の契機もチェチェン紛争で辣腕を振るったことであり、現在のウクライナ侵攻への道はそこから続いているのだということが今になってははっきりしたと思う。

この辺りのことをそういう方向でしっかり整理しておくことは必要だと思うのだけど、それはある意味「唯一の超大国アメリカ」から「テロとの戦争」へ、そしてアメリカ社会内部での対立の激化、オバマ路線とトランプ路線の対立のようなもののある種のネガとしての意味もあり、ワールドワイドにとらえた描出が必要なのだと思うが、日本の現状も含めて、まだこのあたりは自分でも捉えきれてない感じはある。ただ結局は、自分が生きてきたこの時代、この世界はどういう時代でどういう世界だったのか、ということをとらえたい気持ちはあるので、何かの機会にしっかり調べて考えて書いてみたいと思っている。

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朝起きて2階から居間に降りて、時計を見たら止まっていた。この時計は電波時計なので正確なのだけど、電池が切れていなくても時々止まって、明後日の時間を示すことがある。それは東日本大震災の頃から時々起こったのだけど、ここ数日何回もそうなっているので電池が切れたんだろうなと思い、交換してみたらちゃんと動いた。昨日は夜帰ってきたら2階の明かりがつきっぱなしになっていたのだが、この部屋の明かりはセンサーで人が来たらそれを感知してつくようになっているので、誰もいないのにつきっぱなしになっているということはセンサーが誤作動しているということなのだが、よくわからなかったのでコンセントを抜いて消した。電波時計にしてもセンサーライトにしてもそういうことをいじるのが好きな父がやったことなので、時々誤作動するとそんな父のことを思い出す。亡くなったのは2009年なのでもう13年になるが、父の書斎も未整理で、父の息遣いはいまだに家のそこここに残っている。

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昨日はなんとなくネットを見ていたら短歌に目がいって、特にTwitterで短歌を発表している佐藤聖さんの作品がいくつも目に入ってきてRTしたりしていた。






この辺りの作品が特に印象に残ったのだけど、こういう短歌は若さとともにあるなと俵万智さんや古くは与謝野晶子の歌などを思い出しながら思った。

年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山

この西行の歌などは年齢を重ねた人の実感としての思いが謳われているわけだけど、歳をとってくると老いの実感のようなものを歌うよりは懐古的になったり生と死を歌ったりする感じがいいのだが、若い時の歌というのは自分と世界との間にある違和感であったり、なぜ自分はこうなのかという戸惑いみたいなものがあったり、自分以外の人間に感じる感情やその他の何かみたいなものを歌い切れなくて取り出すような感じがあって、古今集の紀貫之の在原業平評、「思ひあまりて言葉足らず」という言葉を思い出す。若いか人はある意味皆業平のようなものなのかもしれない。

「大人」になると自分の感情や自分の在り方に対する確信犯みたいなものを歌った歌が増える気がするが、そのように世界と自分との折り合いをつけることがある意味での成熟ということなのだけど、歳をとってくるとそれもまたどうでも良くなるようなところもあり、きっと歌を詠み続けていたらそのような変化をまた面白く思えたのかもしれないなあと思ったりした。

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今朝、最近少し凝っているコースをドライブしたのだが、今日は信号で止まることは何度かあったが自分の前に車が走っていることが全くなく、気持ちよく運転できたのがよかった。ロードスタイルの自転車は何人か見たけれどもそんなに邪魔に感じることはなく、すいすいと一周してきた。FMをつけていたら「音楽の泉」でベートーベンの交響曲第五番「運命」が流れていて、特に第一楽章冒頭のあの有名な「運命が扉を叩く」部分がずいぶん個性的な表現でへえっと思ったのだが、実はわたしは子供の頃からこの曲が苦手で、最後までちゃんと聞いたことがなかったので、今日は頑張って聞いてみようと思って最後まで聞いた。とはいえ運転しながらセブンイレブンに寄ったりしながらなので途中で途切れてはいる。しかし第一楽章の最後まで聞いてみると、この楽章の後半部分でさえまともに聞いたことはなかったんじゃないかと思った。

指揮はエストニア出身の指揮者・パーヴォ・ヤルヴィ。1962年生まれなので私と同年だ。彼の家庭は音楽一家で、父はブレジネフ時代にラテン語のミサ曲が禁止される中で同年代のエストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの「クレド」を演奏したという人で、1980年に一家でアメリカにわたり、彼自身はジュリアード音楽院で、さらにロサンゼルス・フィルでバーンスタインの元で学び、1994年にはスウェーデンの交響楽団の指揮者になっている。「運命」の第一楽章冒頭の演奏は私の中ではフルトヴェングラーのめちゃくちゃ荘重な演奏がいわばトラウマのように残っているのだが、ヤルヴィのいわば軽快な切り出し方はそのトラウマがやや軽くなる感じはあるなと思った。

まあ正直言ってこの曲の良さ、凄さみたいなものはまだあまりよくわからないのだけど、ヴィヴァルディの「四季」がクラシックの、というかバロック音楽のとっつきやすさみたいなものを提供してくれた感があるのに対し、「運命」はクラシックの、特にベートーベンや交響曲というものに対する敷居の高さみたいなものが提供された感がある。これは音楽に関しては教養主義の名残があった父のベートーベン好きに対する恐らくはアンチみたいなものとも関わっているんだろうなとは思うのだが、第九は聞き込むことで結構なれていった感じはある、というか第九は周りの人が合唱に参加したりして聞く機会がよくあったということもあるのだけど、「運命」に関しては子供の頃には結構その辺でかかっていたけどその後はあまり聞く機会がなかったということも大きいなと思う。

その後他の作曲家の曲は結構普通に聞くようになったし、ベートーベンも交響曲以外はそんなに抵抗なく聞けるようになり、交響曲も五番以外はそんなに抵抗はなくなったのだが、この曲に対する苦手意識だけは初めて聞いた幼稚園の頃から、つまり50年以上経ってもまだ残っている感じはある。

ヤルヴィの演奏はその軽快な感じにおいて同世代感みたいなものを感じるのだが、調べてみたらNHK交響楽団の指揮もしていることを知り、機会があったらライブでも聞いてみたいなと思ったのだった。

また、ヤルヴィはロシアがウクライナに侵攻した当日、モスクワにいてユースオケのリハーサルをしていたという。彼は葛藤を感じたが、結局本番の指揮をした後でモスクワを離れたため、批判も受けた。それに対し、彼はインタビューでこう答えている。


「責任を感じたのです。ロシアの若い音楽家たちが大変な困難と大混乱に直面しているというのに、私だけが背を向けるわけにはいかない、と。彼らには何か得難い経験をしてほしかった。これから長きにわたって、孤立と封鎖が続くでしょう。ひょっとしたら数年では終わらないかもしれない。だから、今回の経験が彼らにとって、生きる糧になるのではと考えたのです。

ですからこのコンサートは、ロシアのウクライナ侵攻に対する強い抗議と若い音楽家たちとの連帯、そしてウクライナ国民との強い連帯と支持を表明するためにおこなったものなのです。」

この「彼ら(ロシアの若い音楽家たち)には何か得難い経験をしてほしかった。」というのがいいなと思う。これから困難に晒される彼らに、彼ができる精一杯の支援ということなのだろう。

そして西側で音楽家個人に対してプーチン政権に対するスタンスを表明させる、いわばマッカーシズムのような動きについては懸念を表明している。

「公演をする前提として、音楽家に今回の侵攻や、プーチン当人への非難を一律に要求するやり方はまったく同意しかねます。欧米には言論の自由をはじめとする、私たちが誇りに思う基本的価値観があります。有無を言わさず要求するのは、ソビエトのやることです。欧米諸国の価値観ではない。

ですが、以前から公然とプーチンと歩みを共にしてきたような音楽家に対して、明確な立場表明を求めるのは当然のことです。ですから、これはケースバイケースで判断すべき問題です。このような敵対的な空気のなかで難しいことは重々承知してはいますが、それでも優先されるべきなのは良識と、人としての品格です。常にこの2つに従って、判断しなくてはいけません。」

この辺のバランス感覚はとても良いなと思う。結局のところ彼のいう通り、

「ロシアは、こちらと同じ民主主義国家ではありません。この点を決して忘れてはなりません。向こうは独裁国家なんです。そんな国家に異を唱えれば、ただちに反体制とみなされ、あらん限りの力と残酷さをもって処罰されてしまうのです。」

というところが問題なのであって、権威主義国家の問題について改めて深めていかなければならないと思うし、日本国内の「プーチンの言い分も聞くべき」という論調には反対を表明していくべきだと思った。


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