「考察的な世界」と「頭の中のアップデート」

Posted at 22/05/20

5月20日(金)曇り

昨日は懸案だった事項にだいぶ進展があったのでかなり気が楽になったのだが、まだ最終的に決着はしてないせいか今日も起きたら4時前で、それでもやることがたくさんあったので朝のうちに事務的なことや雑事を片付けていたらかなり時間がかかってしまった。

ぼーっとしてると「考察的な世界」に入ることがよくあるわけだが、自分の関わる問題についてもその本質や背景についての考察をすることで見えてくることはもちろん多くて、先に書いた問題も政府関係のホームページを見たりPDFをDLして読んだりしながら考えているうちにわかってきたことも多いのだけど、やはりウクライナや読んでいるマンガについての考察になることも多く、ここ数日考察するのは「2.5次元の誘惑(リリサ)」が多い。

自分にとって書くことが大事だ、ある意味での命綱だ、みたいなことを昨日か一昨日に書いたが、その各内容というのはそういう「考察的な世界」に入って考えていることももちろん多い。一つのテーマについてずっと考察し続けられたらその分野の専門家になれるのだと思うが、人として生きている中で見知った色々なテーマについて考察することも多いし、自分の直面した問題について考察することも多い。finalventさんの「考える生き方」は本当に面白かったのだが、彼は何かに直面するととても筋のいい(つまり学問的に根拠のある)本を読んで本質的にその問題を捉え、解決法を探して取り組むということをやっていて、そこがすごいなと思ったのだった。

私は割合お手軽なハウツー本に飛びつく、というかハウツー本みたいなものが元々嫌いじゃないんだなと思うのだけど、そういうものはやり方が書いてあっても「考察が足りない」ことが多いので、まあそこは物足りないところはある。かといってものすごく本格的なものを読む「ノリ」みたいなものがなかなか出ないので、そういうのを読んで後は考察で補う、みたいな感じになっている。「学びて思わざればすなわち暗く、思いて学ばざればすなわち危うし」と孔子は言うが、finalventさんはそのバランスが取れてるなと思うが私は「考察」の方が多すぎることがありがちで、だからまあ「独自研究」的なところに陥るリスクも大きいのだが、その辺は勘と常識とバランス感覚で補正している感じだ。

ただそのやり方だと、ものすごく斬新な研究というものがちゃんと入ってこないことがある。近年のビッグデータを用いた研究の進展で、例えば「血液型の性格」みたいな以前は疑似科学扱いされたようなこともものすごい大量のデータ処理を行えば研究自体は可能な状況になっているわけで、そうした常識のようなものも覆されていく可能性はあるなと思う。

最近思ったのは言語学と人類学のコラボみたいな話で、「語族」と「Y染色体ハプログループ」の相関性が高いという話が、最初はすごく眉唾に感じたのだけど、いろいろ読んでいるうちに説得力を感じてきて、この辺は「父系集団と母語の関係の強さ」みたいなものがイデオロギー的な背景があるのではないかという警戒感を持ってしまったからちょっと敬遠していたということに気がついた。

実際のところ、ちゃんとした筋のいい調べ方をしたらその辺のところも誤解だったことがそんなにかからずにわかったと思うのだが、「常識的に考えれば大体なんとかなる」というその「常識」自体が陳腐化する速度が速くなっていて、更新していく必要が常にあるなと改めて思った。これはウクライナ戦役について安全保障や国際関係論についてのアップデートの必要性が明確になったこととも相まって、「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」という感じになってきているなと思う。古い水夫としても、せめて頭の中だけはアップデートしていきたいものだと思う。(ポリコレ的な価値観のアップデートは特にいらないと思うが)

ということでTwitterに書いた「2.5次元の誘惑(リリサ)」についての考察を展開しようと思って書き始めたのだが「考察的な世界」とはみたいな話を前振りに書いているうちに時間がなくなったので今日のところはここまでにしたい。

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