ウクライナ戦役後の世界における日本の保守主義と自由の価値

Posted at 22/03/29

3月29日(火)曇り

昨日は午前中に仕事をいろいろ済ませ、午後に少し休んでから松本の丸善に出かけたのだが、仕事の本を2冊買ったあと本を物色し、ラッセル・カーク「保守主義の精神」上下(中公選書、2018)を立ち読みして買うかどうか迷ったのだが、自分が知りたいし考えたいのは日本の保守主義であって、アメリカやイギリスの保守主義ではないよなあと思い、とりあえず昨日は買わなかった。

しかし保守主義について考えていると、やはりイギリスのバークやオークショットの保守主義、アメリカの保守主義についてはよく出てくるけれども、なかなかその他の国々におけるまとまった保守主義的なものは少なくとも日本ではあまり取り上げられていない。これは日本でもそうで、日本の保守主義とは何かというのは割とわかりにくいというか、あまり真剣に考えられてきていない感じがある。私が保守主義について考えた最近の本では宇野重規「保守主義とは何か」(中公新書、2016)があるだが、この本は特にあまりよく理解できていなかったアメリカの保守主義については割とわかりやすかったと思う。しかし日本の保守主義の例として取り上げられているのが丸山眞男と福田恒存で、後者はともかく前者を保守主義に認定するのはちょっと違うだろうと思う。保守主義的なものの欠如を嘆くという逆説的な意味での保守主義者、という見方のようではあるが。

英米の保守主義と日本を含むその他の国での保守主義の違いは、つまりは前者には「自由」こそが保守のシンボルだというところがある。これは冷戦時代には社会主義との戦いの中で世界的に見ても保守主義が自由の守護者にならざるを得なかった面はあるのだけど、日本を含め本来「自由」という言葉は進歩派のものであり、社会主義や今の左翼リベラルの側の言葉だったわけだ。

そういう意味で、日本においては「自由」の伝統はそんなに長くない。福沢諭吉の「西洋事情」を読んだときに思ったが、彼は「自由」という言葉をどう訳すか結構迷っている。つまりそういう概念が少なくとも当時の日本にはなかった、ということだろう。もちろんlibertyやfreedomは本来仏教用語の「自由」とは意味が必ずしも重ならない面はあるわけだが、私はこの訳はそんなに悪くないとも思う。

日本における近代化はそういう意味で「自由」をめぐる動きであったわけで、明治時代にはむしろ「自由」は急進主義を意味したわけだから、これを保守主義のシンボルとするには時間が必要だったということなのだろう。良し悪しはともかく大正デモクラシーと昭和初期のオールドリベラリズムに至ってようやく自由が保守の側にも立つようになったのだと思うし、後の「革新」は軍部中心の国家社会主義的傾向と戦後の社会党・共産党などの計画経済主義、経済統制主義に傾斜するようになった。

象徴的に言えるのは日本の保守政党が「自由」を名乗っているということ。これはよく「自由民主党は自由でも民主でも党でもない」みたいに揶揄されたが、保守の側が共産主義の脅威から大同団結してできたからで、90年代まで続く熾烈な党内抗争が自民党の一つの代名詞みたいなものになっていた。

当然ながら地方の自由民主党を支えたのは自由主義者でも民主主義者でもなく権威主義的な地方有力者であったわけで、そのあたりの名称と実態の乖離も「自由」の価値を下げたところはあったが、自由主義経済体制を標榜しながら護送船団方式であるとか、その辺りの「看板に偽りあり」の微妙な匙加減が日本の戦後の発展を支えた面があったのも実際のところだろう。

表現の自由等も68年革命ごろから徐々に実質を伴い始め、ポリティカルコレクティズムやフェミニズムによる強烈な弾圧が始まるまではかなり野放図な自由が謳歌される方向に動いていった。

ポリティカルコレクティズムというのは要は自称左派の側からの自由の弾圧であるわけだけど、「本当に自由でいいのか」ということについては左派の側からもパターナリズムの側からも資本の側からも疑義は常に提出されているわけで、しかしその辺りをなんとか守り続けているのが日本の現状だろうと思う。

このようなことを改めて書いているのはなぜかというと、池内恵さんの以下の指摘を読んだからである。

https://twitter.com/chutoislam/status/1508421163327758340

実際のところ、ロシアによるウクライナ侵略を強烈な「国家主権、自由と民主主義、人権といった国際秩序の危機」であると認識して、ウクライナへの強力な軍事人道援助・ロシアへの強烈な経済制裁を行なっている国は、実際にはそう多くない。国連総会決議では140以上の国が賛成したが、NATO加盟国であるトルコでさえ経済制裁には加わっていない。またアメリカと歩調を揃えることが普通のイスラエルもそうだし、「自由で開かれたインド太平洋」の一つの要であるインドも従来のソ連以来のロシアとの結びつきの強さもあるが、関心は強くないようだ。

池内さんが「権威主義が「歴史の正しい側」だと思っている世界がある」と指摘する一つの例はイスラム世界だと思うのだけど、選挙が実行されている国であってもエジプトやパキスタンのように権威主義的性質が強くなるのはなかなか抑えがたい感じはある。むしろイランなどの方がちゃんと反体制派とある意味共存している感がある。

日本は長期経済的停滞状態が続いているし、様々な面で問題が山積していることは確かなのだが、「自由」ということについては前進し続けている感じがある。というか放っておくと自堕落な意味でどんどんフリーダムになっている、というだけなのかもしれないが、逆に言えば目に見えないところで血を流しながら自由を守り続けている、というようにも感じる。

ポリティカルコレクティズムの猖獗によってアメリカ型リベラリズムの危険性への危機感から日本でも自称保守主義や自称右翼が力を伸ばし、また「表現の自由戦士」というリベラルの側からの揶揄(リベラルという言葉と語義矛盾を起こしているが)を受けている自称自由主義者も増えてきているが、この自由主義を唱える人の多さこそが、重要なのではないかと思う。

私は個人的には、日本は自由主義の側にいるべきだと思うし、権威主義体制が復活することは望ましくないと思う。しかしそれは日本の保守主義における自由の伝統のあまり長くないことにやはり引っかかるところを感じざるを得ないのだけど、日本はこの数十年の自由の伝統を持ってそれを保守する保守主義を作り上げていかなければいけないと思う。

これはロシアのウクライナ侵略(失敗が望ましいが)後の世界において、権威主義とポリティカルコレクティズムという両側からの攻勢に耐えうるための保守主義が必要だということでもある。

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by Luke Peterson

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