東京大焼殺77周年と馬頭観音/ウクライナ建国の父としてのプーチンのクリミア侵略/「われわれすべては失うもの、賭けるべきものを持っている」

Posted at 22/03/10

3月10日(木)晴れ

昨日は懸案が一つ終わったのと一ついい知らせがあったこともあり、割と夜はちゃんと寝られた。最近は6時間寝られるとよく寝たなあと思う。特に昨夜は夜中に一度も起きずに朝まで寝られたので、よかった。だいぶ暖かく感じたのだが最低気温はマイナス2.7度でそんなに暖かいわけでもない。ちゃんと眠れると体が温まっているように感じるのだなと改めて思ったり。

ただ忙しさが終わったわけではないので、とりあえずは自分のペースに乗せていこうと思う。

今日3月10日は東京大空襲77周年。明日3月11日は東日本大震災11周年。戦争災害ないしは犯罪の日の翌日が巨大自然災害の日になるというのはいろいろと考えさせられることがある。

ウクライナでも都市攻撃がかなり行われているが、まだ完全に無差別攻撃という感じではなく、住民避難の人道回廊がいろいろと云々されているという時期なのだが、昭和20年の東京では下町の町工場の地帯がアメリカ軍によってナパーム弾など大量の焼夷弾を投下され、一夜の空襲で死者数は10万人、罹災者は100万人を超えた。当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼ばれたという。

江東区や墨田区を中心とした下町は当時は町工場が多かったのだが、もちろん職住一体の生活圏であったわけだ。そこをアメリカ軍は「軍需工業地帯」と称して無差別爆撃をやったわけで、これは日本が負けたから戦争犯罪にはならなかったが、戦時国際法に厳密に合致していると言えるかといえば問題はあっただろう。日本はサンフランシスコ平和条約で賠償請求権を放棄しているのでそのままになっているが、もし現代にこれが行われていたら大きな問題になったに違いない。

私はもちろん当時は生きていないし新住民であるから伝承もないのだが、広い範囲で「戦後建った新しい建物しかない」不自然さにだんだん気づくようになったし、近所を散歩していて馬頭観音が祀られている小さな祠があり、そこの説明文に「東京大空襲で死んだ荷馬たちの慰霊のため」と書かれていて、当時はまだ馬が現役で動力源として使われていたことなどもわかった。自動車を動かすガソリンも不足していただろうけど、馬に食べさせる飼料もそう多くはなかったはずで、紅蓮の炎の中逃げ惑った馬たちのことを思うと胸が痛む。

ウクライナでこのような人道危機が訪れないことを祈るけれども、ロシア軍は早々に国外に撤退し、平和を回復してもらいたいなと思う。

***

https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/center/essay/20140609-j.html

伊藤孝之氏の「ウクライナ ー国民形成なき国民国家」を読むと、2014年のクリミア併合時のウクライナでは、国家でありながら国家意識が低く、その結果当然ながら国民意識も低くて、クリミアは易々とロシアに奪われ、東部2州でも親露派住民による占拠を許してしまった。このことはそれ以外の地域に住むウクライナ人たちには大きなショックを与えたという。

「突然、われわれすべてが何か失うものを持っている、何か賭けなければならないものがあるということが明らかになった。突然われわれすべてが一つの祖国を持っているということが明らかになった。経済的に弱く、社会的には不公正で、汚職にまみれているとしても、やっぱりわれわれの祖国だ。他に祖国はない。この共属感情、この共通の国境を持っているという感情は軽率に無視するにはあまりに根本的で重要だ。」

これはウクライナのジャーナリスト、Serhij Zhadanの言葉だが、この言葉が「2014年にウクライナに何が起こったのか」をよく表している。親露派のヤヌコビッチ大統領は追放され、以後のウクライナは問題を抱えながらも民族意識を高め、西欧志向・親EU志向を高めていく。その結果が今回のウクライナ戦争におけるウクライナ国民の奮戦ぶり、たじろがぬゼレンスキー政権の姿勢だとしたら、ウクライナの建国の父はクリミア侵攻を強行したプーチンだとすら言えるかもしれない。

「ウクライナという民族国家・国民国家」の形成については、これは旧ソ連諸国すべてに共通する部分があると思うけれども、国家形成としてはかなりの特殊性を持っている。日本のようにほぼ最初からネーションステイトを持っていて、近代において北海道や沖縄などで国境の確定が行われたというような国は少数派であり、さまざまな国で国民国家形成の過程がある。植民地として支配された領域がそのまま新しい国民国家となった、という歴史がたとえばインドネシアやフィリピンにはあり、それがアンダーソンの「創造の共同体」なわけだけれども、ウクライナの2014年から22年の歴史を見ることで、今まさに国民国家が誕生しようとしている、そして誕生間際の国民国家をプーチンの大ロシア幻想が焼殺しようとしている、という事実が立ち現れてくる。

伊東氏の論考はボリシェビキによって「過剰に良心的に」設定された民族国境と、それにもかかわらずのソビエト政権による恣意的な国家運営によって翻弄されたそれぞれの民族、そしてソ連崩壊によって「突然与えられた」民族国家とそれへの意識の低さ、そしてロシアの侵攻によって目覚めた民族感情という旧ソ連諸国の特異な歴史を端的に解説されていて、またもう少ししっかり読んでみないといけないと思った。

また、戦後民主主義教育・平和教育にある意味洗脳されていたわれわれ日本人の中にも、中国・韓国との教科書問題や北朝鮮による拉致事件によって「突然、われわれすべてが何か失うものを持っている、何か賭けなければならないものがあるということが明らかになった。」と感じた人は多いと思うし、ウクライナ人ほどの切実さではないにしても、われわれのよって立つべき基盤の再確認ということは重要であると、改めて思ったのだった。

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