経済学が面白くなってきた理由/「知識資本主義」を予見した3人のユダヤ人

Posted at 22/02/01

2月1日(火)晴れ

2月になった。今朝は冷え込んでいる。今の気温はマイナス7.6度。まだ日の出前なので、これからまだ下がる感じがする。もうすぐ立春だけど、二十四節気で言えばまだ大寒。七十二候で言えば「雞始乳」、鶏が卵を産み始める時期とのこと。旧暦でいえば今日は旧元日、いわゆる旧正月。中華圏で言えば春節。寒い中にも色々動き出す時期ということか。

経済学に取り組んでいて、と言っても本を読んでいるだけだが、面白いと思うのは世の中の全ての動きに関わりがあるということだ。芸術にしても文化にしても、実際のところあまり多くの人に関わっているわけではないし、文化はそれ自体だけで動いているわけではない。政治も法学も結局のところは多くの人に関わっていくことではあるけれども、経済はリアルタイムで世の中に関わっていくもので、これに対して膨大な人々が様々な言説を述べ、また様々な調査がなされて統計も上がってきているし、それを考察するための様々な指数や経済指標など、考えるためのツールも開発されている。

その辺りのところが面白くなってきたのだけど、なぜ自分が今までそういうものに関心を持たなかったのかということの方が逆に不思議になるのだが、世の中の構造の基盤的な部分に結局はあまり関心がない、というかそこをあまり面白いと思っていなかったということなんだなと思う。文化や芸術というのはいわば世の中の上澄みの部分だし、社会問題的なことは世の中の流れに生じる淀みみたいなものと言えるわけだけど、いずれにしてもそういう世の中の目につきやすいところを見ていたんだなあと思う。

経済学というものに関心がなかったわけではなくて、もちろん中学の公民での経済、高校の倫社でのマルクスの下部構造と上部構造の議論、政経で学んだ簡単な経済理論、(そう言えば大学は世界史と政経で受験したんだった)世界史で取り上げられた様々な経済現象とその影響、みたいなことは知っていたが、それらを面白いと思ったことはなく、高校の世界史の先生が「国富論」で述べられている「分業と協業」のシステムをすごく面白そうに説明しているその気持ちは不思議に思っていた。

父の本棚にあった堺屋太一や小室直樹の本を読んでいて、「ソ連はやがて崩壊する」みたいな話は面白いと思っていたし実際に崩壊しておお!とは思ったが、大学でも本は少しは読んでは見たけど何が面白いのかは結局よくわからないままだった。

ネットで知り合った経済学の人たちに話を聞いて「経済学は基本的に近代のことを扱う」というのを知ったのは40くらいになっていたし、経済の動きが大きな影響を社会に与えていることは了解はしていても自分がそれに取り組む気持ちにはならなかった。

それが変わったのは栗原裕一郎さんや稲葉振一郎さんの議論を読んで経済的な新自由主義の問題点をはっきり理解したからで、それももう結構前になるのだが、その辺の部分だけは関心はあったけど経済学本体に取り組もうというところまではいっていなかった。

一つには少しずつドラッカーを読んでいたこともあるだろう。「もしドラ」は結構面白かったし、そこからドラッカーの著作も少しずつ読み、脱工業化社会とか知識社会についてなんとなく考えたりはして、AIとかの進歩やコンサル企業が東大生の就職先の一番人気だとかいう話が出てきて、なんというか世の中は自分の思ってきたものとは違うものになってきているなという実感を持つようになって、商業資本主義・産業資本主義・金融資本主義と世の中は変わってきたけどもはや金融資本主義ですらないんじゃないかと思い、「情報」「知識」こそが資本主義の新しいエンジンなんじゃないかというアイデアに達して松本の丸善で経済学の棚を探して見つけたのが今読んでいる「資本主義の新しい形」だった。

素人が読んでわかるものか、という感じで最初は取り付きように迷いながら読んでいたのだけど、結構読み始めたら読める。もちろんわからないことは多いが、現代はウェブで調べれば一通りのことはわかるので、今のところイメージが掴みきれていないのは「自然利子率」くらいのもので、大体はこういう感じかなという感じでは読めている。そして読めば読むほど経済学というのは全てのものに関わり取り組みがいのあるものだということがわかってきて、少しずつ自分の中での判断基準ができてきている感じがする。

もっと早くにこの面白さがわかっていれば良かったのだけど、おそらく今読んでるテーマでなければ面白いとは思わなかったと思うので、ある意味仕方ない部分も大きいなと思う。せっかくなので何か成果を残せるところまではやりたいと思うし、まあぼちぼち研鑽を深めていきたいと思う。

***

「資本主義の新しい形」:2-1資本主義の「非物質的転向」とは何か を読んだ。

ここまでのところは資本主義の現況を見てきたわけだが、特に21世紀になっての状況は実際に「非物質化」とでもいうべき「何か」が進行しているということ、そしてその先にしか「成長の可能性」はないのではないかということ、それからおそらく著者自身の関心としては「持続可能な経済」の可能性がそこにあるのではないかということを見てきた。

第2章ではその「資本主義の非物質的転向」について、具体的にどういうものか見ていくという問題設定になっている。

「2-2-1知識産業、脱工業化、ポスト資本主義」では著者に先行してこのような問題関心や指摘を行なった人、具体的にはマッハルプ「知識産業」(1962)、ベル「脱工業社会の到来」(1973)、ドラッカー「ポスト資本主義社会」(1993)の三者で、それに加えて神野直彦「「人間国家」への改革」(2015)が取り上げられている。

マッハルプの議論で面白かったのは、1958年の時点で知識の生み出す付加価値がすでにアメリカGDPの30%を占めていたという話で、彼は経済における知識・情報の重要性に注目した先駆者的存在であるとのことだ。またベルの議論では「経験的知識」よりも「理論的・科学的知識」の重要性が高まり、それを用いる専門職や知的技術職の重要性が高まるというところが面白かったが、これは逆に言えば「経験的知識が疎かにされがちな現代の傾向」の予言でもあるように思われた。

ドラッカーの議論は違う本だが既に読んでいたのでああここで取り上げられるのかと感慨があったのだが、「成人に対する教育」の重要性を訴えているところが面白く、「40代になっても大学や大学院に行って新しい知識を学ばなければならないビジネスマン」みたいなアメリカで現実化していることの予見者的な感じだなと思った。これは大変だとは思うが日本は逆にその面が遅れているように思う。

神野の議論もやはり教育に関することだが、生産現場に求められていることが知識社会においては多様性・柔軟性・創造性になり、それゆえに「人間的能力=対人能力・コミュニケーション能力・創造性」を育てることが求められることになった、というところが面白かった。

この辺りは、よくネットで見られる発達障害の議論、ASDなどの可視化の議論とも重なる。産業社会で求められていた均一性・正確性・規律といったものには対応できたASDの人たちが対人能力が要求されるようになって労働に不適応性が現れてしまうようになった、という話だ。現代は大学や企業の面接でも「真面目さよりコミュニケーション能力」が重視されるわけで、こうしたことが苦手な人にとっては生きづらくなる変化であるなとは思う。

面白いなと思ったのは、これは自分で調べたことなのだけど、マッハルプ(1902-1983)とドラッカー(1909-2005)がオーストリアからアメリカに渡った人であり、ベル(1919-2011)がニューヨークの貧困家庭で育ったロシア系であったということだ。資本主義をこうした観点から分析する人たちが中欧出身ないし東欧系で、しかも3人ともユダヤ人であるというのは少し驚いた。本書ではその面からの分析はないのでわからないけれども、資本主義というものをやや斜めから見る視点がもともと彼らにはあったのではないかという気がする。

今日は第2章第1節全体について書くつもりだったのだけどだいぶ話が長くなったのでこのくらいにしておこうと思う。

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