「ハロー、ユーラシア」:心の問題としての新儒家と宇宙論としての中国天朝主義

Posted at 21/12/30

12月30日(木)雪のち曇り

朝起きて出かけようとして玄関を開けたら車が雪化粧していて驚いたのだが、薄く積もった程度だったので竹箒で家の前の道路を軽く掃いて出かけた。フロントガラスは凍っていたのでしばらく暖房をかけておいたのだが、今日の最低気温は0.1度だったのでそんなには寒くなかった。寒いと言っても0度とマイナス5度とマイナス10度ではそれぞれ全然違う。最近は0度ならそんなに寒くないなという感じ。マイナス5度だと部屋の中がなかなか暖まらないし、マイナス10度だと水道が凍ったり色々なトラブルが起こりやすい。

今年も残すところ後わずかで、年末には今年読んだマンガ10選とか読んだ書籍10選みたいなのをやるのも楽しいのだが、今年の年末は福嶋亮大「ハロー、ユーラシア」を読んでいて、読んで考えたことをブログに書いているのでなかなかそこまで行かない。余裕がある時にその辺りも考えて見たいと思う。年は明けそうだ。

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「ハロー、ユーラシア」第五章第三節は天という概念の登場時期と天に繋がるにはどうしたらいいかという問題、「起源とアクセス」と題されている。「天」という概念は周王朝で現れた、天を祀ることを始めたのは周であるというのは私もその認識なのだが、その中でも「巫」、つまりシャーマンが天意を聞く力を持っており、「巫」が行っていた「祭祀」を起源として体系化された「礼楽」が現れたというあたりは自分の知識が裏付けられた感じがする。

孔子はもともと「巫」に繋がる出自であったというのは白川静であったか、そのあたりで読んだ覚えがある。彼の知っていた祭祀と周公に擬せられる礼楽の体系化を関連させて、ただそこに孔子は常に形骸化の危険を感じていたのか、天命を知るためにも「仁」、つまり心の問題が重要だとしたのだろう。余英時はそれを「孔子の狙い」としているが、つまり「礼楽」よりも「心」が重要だという変化がここで起こったとし、それをヤスパースの言う「枢軸時代」と結び付けている。ソクラテスの哲学やウパニシャッドと同じ時期に中国でもいわば内面化された儒教という思想革命が起こったというわけである。

哲学は「超越」への指向を伴うが、ギリシャ哲学がイデアという「外的」なものに向かったのに対し、儒教哲学は心という内的なものに向かったと余は言い、それが仏教道教などを含めた東洋哲学の、西洋哲学に対する特徴だと言う。この辺りが第四節である。

第五節では牟宗三を取り上げるが、ギリシャ以来のヨーロッパ思想が「自然」を知る哲学として発達して行ったのに対し、中国の哲学は対象を「道徳」とし、当初から主体性、実践理性の哲学として発達したとする。天命・天意は自らに内在するものという方向へ発達したというあたり、福嶋さんはそうは書いてないが、梵我一如であるとかヨーガ・スピリチュアル的なものとの関連性なども想像される。世界をあくまで外在のものと捉える西欧と内在のものと捉える東洋哲学の違い、みたいなものが強く主張されているように思う。

逆に双方に弱いところがあるわけで、儒教・東洋哲学は「外的な現象を正確に認識する」=「自然科学的視点」という点で弱いことを牟宗三は認めていて、一方で主体性・道徳の哲学であるカント哲学は、道徳律が人間の外から与えられるものになるから、「人間の自然な感情」と一致するとは限らないという危険性を伴うことになるわけだ。しかし牟宗三の考えでは天意を知るために道徳的に心を高めていくわけだからそこにギャップはないことになる。

こういう内面の哲学的な考察を行ってきたのが清末以来の近代の動乱時代の哲学者たちで、彼らの学問的動機は宋や明の儒学者たちの「宋明理学」とは根本的に異なっている。彼らは「新儒家」と呼ばれているが、彼らは中国が近代国家として生き残るためには民族の思想誌に基づく確固とした思想が必要だという視点からその可能性を儒教に求めて考察を重ねてきたわけで、彼らは革命中国が成立したのちは台湾や香港、あるいはアメリカなどを拠点に活動を続けてきた。

この儒教の近代史を振り返った上で、第七節で述べられているのは21世紀の現代中国=中韓人民共和国における新しい思想はこのような「心=個人の倫理」を追究した新儒学を否定して新しい「天下思想」が生まれてきたということだ。

今まで述べてきた新儒家の思想について福嶋さんは「同意できるかは別として切実なものが感じられる」と言っているが、これは全くその通りだと思う。どうしても西洋哲学とのハイブリッド感は否めないが、ある種の弁証法的な止揚が行われているようにも感じるし、何よりも真摯な試みであることに心を打たれる部分がある。

しかし、「天下思想」「中国天朝主義」と括られる21世紀の中共政権下の知識人たちは心の問題としての儒教を否定し、統治の問題とし、前漢期の董仲舒と清末の康有為に代表される「公羊学派」を重視しているという。董仲舒は陰陽五行説や天人感応のコスモロジーを強調したことを新儒家たちは否定的に捉えていたが、現代知識人たちはむしろコスモロジーとしての儒教だけを重視し、心の問題を捨て去ろうとしていると福嶋さんはいう。趙汀陽は「天道は証明される必要がない」と言い切っていて、こうなるとカトリックの教理問答のようである。現代知識人たちにとって重要なのは「天下」「天朝」という枠組みの方であって、「近世・近代儒教が心の問題にこだわり政治・天下的な政治的枠組みを粗末にしたせいで」中国はイギリスの植民地教育に屈服した、とさえ言っているわけだ。

この辺りは確かに一面の真実がある、というか儒教をあくまで個人の問題にしてしまうと西欧が押し付けてきた近代国際関係・近代国家観に対抗するための枠組みとして儒教を使えなくなってしまう。だから日本でいうネトウヨ的に「中国すごい!」「世界は中国のここに感心している!」みたいな方向へ行ってしまうのはわからなくはない。それが現代中国の旺盛な国力を背景にしているだけに、より理不尽な迫力がある。アメリカが中国を明確に敵視し始めたのも、ファシズムやコミュニズムと同じく習近平政権とその思想的背景にある中国知識人の主張は明確に受け入れられないものと認識するようになったからではないかという気はする。この辺りは戦前日本の「近代の超克」論なども欧米側から見れば同列のものに見えるのだろうなとは思う。

多分欧米から見ると今の中国の「一帯一路政策」なども戦前日本の「大東亜共栄圏構想」と似たように見えるだろうし、中国がある種歴史に学びながら日本の轍を踏まないようにしているようにも思えるが、欧米から見たら「歴史は繰り返す。2度目は喜劇として」のように見えるのかもしれないと思うし、むしろ今回の方が本ちゃんだと見えている可能性もある。

戦前戦後の日本の知識人たちも、「日本には日本の言い分はある」と言ってきたわけだし、それは私もそう思うけれども、中国はまだ「戦前」なので何をしでかすかわからないところはある。少なくとも日本は精神力で勝とうとしていたけれども中国は生産力においてもアメリカを凌駕する勢いがあるわけで、そこはある程度深刻に考えているだろう。

この米中対立の狭間で日本は独自のスタンスをとっていかないと生き残れないと思うが、基本は対米強調であることはやむを得ないと思うが、近代アメリカも近代中国も日本においてはまだまだ研究不足であることはこの本を読んで痛感している。アメリカに関してはオッカム先生の言説が参考になることが多いけれども、中国についても積極的に読んでいこうと思う。

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