ものを捨てる・家を温める/「ハロー、ユーラシア」:支配を正当化する「天」と革命の原動力になる「天」

Posted at 21/12/29

12月29日(水)晴れ

年の瀬も押し詰まってきた。今年はもう新しい漫画雑誌も出ないようだし、朝はのんびりしている。毎年押せ押せになる年末の日程も、今年は頑張って年賀状とお歳暮を早く済ませ、弟や妹が来てくれて片付けや大掃除をやってくれたのでかなり余裕がある。普段はなかなか手をつけられないようなところを片付けるモチベーションが出てきて、ありがたい。

今回はだいぶ「ものを捨てる」というのをやってもらったので、色々なもの、割と「やるべきこと」の下層に埋もれていたものについて考えやすくなった。まあそういうことが堆積しないうちに片付けることが肝要だと改めて思っている。自分の部屋や台所、整理中の書類、廊下、玄関、そういうところに出しっぱなしになっているものなどに少しずつ手がつけられるようになってきたかなと思う。

一つには、古い在来工法(伝統工法ではない)の日本家屋で毎年冬になると寒くて何もできなかったのを、もう割り切って暖房をいくつも点けて暖かく過ごせるようにすることで作業も捗るようになってきたのが大きい。暖房費はかなりかかりそうだけど、動けない時間が多くて困るということの方が良くないと考えることにした。

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「ハロー、ユーラシア」第五章、「天」についての記述のところを読み直している。第一節は現代中国での「天下概念」の使い方を「中国天朝主義」として批判する視点から述べられていたが、第二節「消失する媒介者としての天」では日本においてヨーロッパの近代民主主義概念を導入する際の「媒介者」となった「天」について述べられている。

第一節では上から目線の「天」の概念、つまり中国共産党支配・の正当化、「統治の原動力としての天」に使われている面を批判しているが、第二節ではいわば下から目線の「天」、「革命の原動力としての天」という側面があったことを指摘している。これは主に民衆の幸福こそが「公の善」という考えからきているわけで、そうした考えが「天賦人権」など西欧近代概念の導入の際に媒介として使われていることを述べている。これは例えばキリスト教の概念を日本に導入しようとした宣教師などが聖母マリアを観音菩薩に擬えて解いたものと通じるものだろう。

ここで大事なことは政権に対する「統治の委任者としての天」と、不当な政権に対する「革命の司令者としての天」の双方があるということだろう。「礼記」を参照してみると、「天下為公」、「天下を公と為す」という言葉があり、これは礼記の中で孔子が政権構想として理想国家について述べているところで出てくる(実際に言ったかどうかはともかくそう書かれている)わけだが、それに対して孔子がよくない例としてあげているのが「天下為家」、「天下を家と為す」ということで、これはうまく解釈できてないのだが、要は「私する」ということなのではないかと思う。

そうなると「天」という概念は中国共産党を批判する思想としても使い得るわけで、その辺のところは興味深いと思った。

その後、第三節「起源とアクセス」から第六節「カントと牟宗三」までは「天」と「人」についてのある意味での形而上学的な考察が述べられている。この辺りについては改めて書きたい。

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