手順の確認/坂口安吾と野田秀樹

Posted at 21/12/17

12月17日(金)雨

日付と天気を書くと、小学生の頃に学校に提出する夏休みの日記を書いていたことを思い出すが、今なら今日の天気ということで書いても1日のうちに変化することが多いから何を書けばいいのだろうと思うが、当時は割とシンブルに書いてた気がする。晴れのち曇りとかそういう感じが多かったかも。日記は後でまとめて書くことも多かったから旅行に行った時の天気は適当に書いても先生にはわからないだろうとか思っていたけど、今ならデータですぐわかってしまうかもしれないな。などと思ったり。

今はブログは朝書くから今日のこれからの天気はわからないから書いている時点での天気を書いているのだけど、微妙なことも多いのだよな。まあそれほどすごく重要な情報ではないけれども。

今日はやることが多いせいか、朝4時ごろに目を覚ましてしまい、その後少し寝ようとしたのだがうまく寝られず、結局起きて色々作業をしていた。帰ってきてから色々できる余裕があればいいのだが、結局起きてからにすることが多い。毎日移動が多いので手順を確認しておかないとやるべきことがやれないので色々困る。

東京での生活だと移動の間、電車の中とかで手順を再確認したりすることができるからそういう段取りでいろいろ思うことはあまりないのだが、田舎だと移動も全て徒歩か車なので移動中に「座って何かの作業をする」時間というのはないのだよな。段取りをひとつ間違えるとその仕事をするために10キロ以上戻って同じ店に行くようなことが起こったりする。まあいろいろだ。

昨日は福嶋亮大「百年の批評」の坂口安吾のところを読んでいたのだが、読んでいる途中で野田秀樹さんのことを思い出すところがとても多く、野田さんは安吾に影響を強く受けているんだなと改めて思った。

安吾のジェネレーション分析の話の中でドライアイス工場や小菅刑務所に「必要」から生まれた「美」を求めたという話、これ自体はドイツのバウハウス運動以降の機能美や民藝の「用の美」と言ったことと関連してくると思うけれども、そういう美の中に「軍艦」があるというのが目に留まった。

「軍艦の美」というと、これは昔の男の子が軍艦に熱中した、これは勇ましいものが好きというだけでなく、現代の鉄道オタクが写真を撮りたがるのと共通する機械の「美しさ」に魅了されるという部分が多いのだけど、野田さんの最初の戯曲である「走れメルス」の中で軍艦の名前を羅列する場面があり、そのことをすぐに連想したのだ。(これは今の若い人なら艦娘を連想するところなのかもしれない)

それに続けて安吾の新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)は「人間嫌いの美学である」というようなことを述べているのだけど、この辺りも野田さんの「走れメルス」や「怪盗乱魔」などの初期の戯曲には強く感じるところだった。この辺の人間嫌い・現世嫌いぶりはそれ自体が野田さんの文学性の大きな部分を占めていたと思うのだけど、野田さん自身はそういうものをあまり良いと思っていなかったのか、後になるとあだんだん消えていった気がするし、その辺りから劇場に通うことも無くなった覚えはある。

だから野田さんの作家性の本質がそこにあるのかどうかというところまではよくわからないのだけど、少なくとも初期は坂口安吾の影響を強く受けていたことは確かだなと思う。野田さんの「たかが人生」と題された自身の年譜でも、「坂口安吾が死んでそのたましいが宿って自分が生まれた」みたいなことを書いていて、冗談めかして書いているけれどもそのくらいには自身と安吾を同一視するような部分があったのだろうなと思う。

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