岸田内閣の「デジタル田園都市国家構想」について考える

Posted at 21/12/02

12月2日(木)晴れ

最近「6時まで寝る」がかなり定着して来ていて身体的には少し余裕が出て来た感じがあるのだけど、今まで朝の時間にこなしていたことができなくなっているので午前中にそういう内容が食い込み、その分仕事が集中してしまっている感じはある。

今のところそれでやろうと思ったことはこなせるようになって来たので基本的に悪くはないと思うのだが、仕事がこなせてくると元々の法外の仕事量の多さがよりはっきりしてきてどうにかしないととは思う。

今朝は書斎兼アトリエにしている部屋の近くで草刈りが始まったため別の場所に避難してブログを書いているのだが、普段と違う場所で仕事をするのは最初の環境整備に時間がかかるので少し面倒ではある。ただ、そんなに場所が離れていないのに草刈りの音は全くしなくて、恐らくは山の斜面の角度の関係だと思うのだが、不思議なものだと思う。

今朝は資源ごみの日だったのでプラごみや牛乳パックを捨てたあと、先日の法事の後お墓に行ってないことを思い出して線香置きや花などを少し片付けてきた。卒塔婆が倒れていたので土を払って立て直したり、お題目を唱えたりした。空はとても青くて、お墓の近くから見える山と高圧線の鉄塔の写真を撮った。

日本はこれからどうすればいいのかということについて、岸田首相は「新自由主義からの脱却」ということを言っているわけだけど、その具体的な政策というのは宏池会の先達の二つの政策、池田勇人の「所得倍増計画」と大平正芳の「田園都市国家構想」に集約されるのかなと思う。

「所得倍増計画」は今までも語られてきたし、これは大いに期待はしたいと思うが、具体的には「成長と分配」を好循環させること、つまり勤労者により多くの賃金を分配することが一つの柱ということなのだと思う。輸出を倍増させて国際収支を大きく黒字にする、みたいなことは産業政策的にも難しいが国際環境的にも難しいわけで、「日本の新しい稼ぎどころをどこに作るのか」という課題はまだ解決していないだろう。そういう意味で景気づけに「所得倍増」をいうのはいいけれども、その中身をいかに伴わせるかということについては具体的な政策もそうだが岸田首相の「哲学」をはっきり示してもらいたいものだと思う。

田園都市国家構想の方は「デジタル田園都市国家構想」という形ですでに諮問がはじまっているが、メンバーを見ると「田園都市」よりも「デジタル」の方に重点が置かれている感じがし、やはり今のところちょっと疑問符がつく。


この辺りを考えるのに、色々ネットを見ていたらJA(農協)のホームページに大平による田園都市国家構想と岸田の「デジテル田園都市」の構想を比較して論じた記事が出てきた。これはいろいろと参考になった。


記者の立ち位置は農協なので当然「この構想に農業がどう関わるか」という問題関心になる。ただそれにとどまらず、大平と岸田の人物月旦にまで話が及んでいて、その辺も興味深いと思った。特に岸田は「農は国の基」ということを繰り返し述べているので、それについての期待は大きいようである。

そしてこれを読んで、私自身が日本の国土政策についてあまりに知らないことが多いということに改めて気付かされた。

また、大平という政治家が実にスケールの大きい構想を持っていたというのも改めて確認させられた。彼は政策研究会を政治の関わる分野全般について、9の政策研究会を設けていたという。それを列挙すると、

1田園都市構想、

2対外経済政策研究、

3多元化社会の生活関心、

4環太平洋連帯、

5家庭基盤充実、

6総合安全保障、

7文化の時代、

8文化の時代の経済運営、

9科学技術の史的展開

という実に目配りの効いた議論を構想していたことがわかる。大平内閣は実際には党内抗争に終始し、これらの政策ビジョンを実現する前に急逝してしまったのでもし大平政権が長期政権になってこれらの構想が現実に身を結んでいたらどのような展開になっていたのか、惜しむべきところもあると思う。

特に「家庭基盤充実」というような議論は現在の軽佻浮薄な男女共同参画のようなものよりもより本質的に重要だったと思うし、「文化の時代」という戦後ずっと語られ続けて来たがなかなか実現しない何か、それでも恐らくは80年代には企業メセナという形で少しは文化の振興と大衆化が進んだことに関係はあるのではないかと思う。

実現化したものとしては環太平洋連帯がAPECという形になっているし、田園都市構想の会議の座長には「文明の生態史観」の梅棹忠夫がつとめるなど、竹中や増田が幅を利かす昨今の審議会に比べてはるかに文化的に幅も広く底も深い議論がなされていただろうなあと想像される。

大平の「田園都市国家構想」というのは国土計画、都市計画として今考えると少し突飛な表現のように思えるが、恐らくは池田内閣の「全国総合開発計画」の実現へ向けてのプランの一つ、「新産業都市」などからの連想があったのではないかと思う。新産業都市は全国に工業の拠点を作ることで国土の均衡ある発展を図るというものだったが、田園都市というのは20−30万規模の地方都市と周辺の農村地帯をセットにして、年と農村を対立するものではなく一体と捉え、そうした共存型都市圏を全国に広げようという考え方だったようだ。

構想から50年、産業も生活も消費も高度に発達した現在において20-30万という中心都市規模は都市圏として自立可能な規模としては少し小さい気はするが、長野県においてもそのような都市圏は長野と松本しかないし、現実的にはそのようなものかとは思う。それ以下の都市圏に主に生活拠点を置く身としては、そこには総合大学や都道府県レベルでの行政中心、百貨店をはじめとする一定の文化レベルの都市生活を可能にする商店群がないとやはり人口はより大きな都市に流出して行ってしまうだろうと思う。

自立した文化都市、田園都市というのは例えばアメリカのナッシュビルやイギリスのリバプールのように、その都市のライブハウスやレーベルが世界的な音楽シーンをリードするようになる、みたいな世界に直結した文化を持つような都市になるということだと思うし、あまりに東京偏重な現在の文化状況では実際にそういう動きを支えていくことは難しいだろうと思う。

全国総合開発計画(全総)はその後も改定されながら受け継がれ、現在では2017年に作成された第二次国土形成計画がその後継だということなのだけど、私はその存在をほとんど知らなかった。これについてはまた読んでみたいと思う。

しかし大平内閣時代の構想などを改めて考察してみると、この時代の議論がいかに深いところまで射程に持っていたか、そして特に感じるのは「日本の独自性」というものをいかに当然の前提にしていたか、ということを痛感する。平成になって出てきた様々な構想は、日本の独自性というよりもアメリカやヨーロッパや新興国に対して日本がいかに遅れをとっているか、そのために日本の制度をいかにそれらの国々に近づけていくかという議論が中心で、そこがあまりに知的レベルが低い、上っ面のものになっているかということを感じた。

梅棹忠夫の「文明の生態史観」や司馬遼太郎の「この国のかたち」論、照葉樹林文化論などは最近はより解像度の低い古い文化認識と考えられ、考慮の外に置かれる傾向が出てきているが、人文学はそれらに変わるより深い、より日本の文化伝統に根ざした、よりグローバルな世界観が描けているかというと全くそんなことはないわけで、人文学もまた西欧思想の輸入業者に過ぎないようになってきてしまっているだろう。

そのような人文学が政治構想においてより深い哲学的なバックボーンになることは不可能なわけで、大平内閣の構想と岸田内閣の構想の哲学的レベルでの深さの差は日本の学問レベルの後退にも起因するように思えてならない。

小泉進次郎氏が「進次郎構文」という言葉に代表されるように、「いいことを言っているように見えるけど実は何も言っていない」ということが明らかになりつつある今、よく考えてみればその父親の小泉純一郎元首相も「すごいことを言っているように見えるけど実は何も考えていな」かったのではないかと私などには思えてきている。小泉元首相も「命懸けで政治をやってる」感は強かったが、その中身は一体何に命をかけていたのか。「血の出るような軽佻浮薄」こそが小泉内閣の本質だったのではないかという気がする。

そうした小泉内閣以来の「言葉の軽い政治」がより日本の停滞に大きな影響を持っていると思われる今、久々の宏池会内閣である岸田内閣にはより深い哲学的構想に基づいた国家ビジョンを示し、実現して行ってもらいたいものだと思う。



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