買ったかどうか分からない本

Posted at 21/09/25

今朝は5時前に目が覚めて、なんとなく動いていたのだが、資源ごみを出したあとお城のそばのファミマまで行って「アフタヌーン」と「ビッグコミック」を買った。「ブルーピリオド」が新展開になっていたのとアニメ化記念企画と思われるアフレコのルポが面白かった。「ビッグコミック」は「BLUE GIANT」の最新回が目当てだが、これも面白かった。

朝いろいろやっているうちに時間が過ぎたのだが、10時前に出かけて郵便局で仕事に使う切手を買い、車を走らせて書店で「ビッグガンガン」10号、「ローリングストーン」11月号と「ハイスコアガールダッシュ」の2巻、それに伊藤俊一「荘園」(中公新書、2021)を買った。

「ローリングストーン」は「チェンソーマン」の作者藤本タツキのインタビューが掲載されているからで、これはまだ読んでないが面白そうだった。

実はもう一冊買おうと思っていた本があった。水島治郎「ポピュリズムとは何か」(中公新書、2016)である。地元の書店はなかなかこういうかっちりした本は置いてくれていないので、探したらあったのは良かったのだが、中身を見てみてどうも既視感を感じてしまったのである。

つまり、「もうすでに持っているのではないか」という疑惑がフツフツと湧き上がって来たのである。

「ポピュリズムとは何か」という題名だけ読むと、本当に類書がたくさんありそうな書名だし、その手の本は結構買っているので持っている可能性は結構ある。しかし、持っていたとしてもちゃんと最後まで読まずに前の方だけ読んでそのままになっている本に違いないと思う。ちゃんと最後まで読んだ本は流石にそれと覚えているからだ。

だが持ってない気もする。迷ったのだが、結局買わなかった。そこにあるということをわかっていれば買うこともできるし、まずは本棚を探してみようと思ったのだ。2016年刊行なので5年前。ちょうど忘れそうな時期だ。いろいろ考えてとりあえず買うのをやめた。マケプレに160円とかの値段で出ているということもあったのだが…

隣のスーパーで米を買う。もう新米が出ていたのだが、新米はまだ無洗米になっていなくて、いろいろ考えたが千葉産のコシヒカリの新米を買った。なぜか2年度産の長野の米よりも安いのが不思議だったが、せっかくだから新米を食べてみようと思ったのだ。無洗米でないからとがなければならないが、まあそれもいいだろうと。

家に帰ってから本棚を探したが、「ポピュリズムとは何か」は見つからなかった。職場に置いているかもしれないので行った際に確認しようと思うが、基本的には買ってない気がしてきた。読んでない本もたくさんあるし、まあ順番に買いに行くようにしようと思う。

帰りの車の中で運転しながら考えたのだが、父が生きていた頃、父の本棚の本をよく読んでいて、特に最近買った本は最初の方だけ線が引いてあって(父は本を読みながら線を引く人だった)書き込みも結構あるのだが後ろの方は真っ白、という本が多くて、ちゃんと読んだのかどうかわからないが多分読んでないなという感じで、その辺が若い頃は不思議だった。せっかく買ったなら最後まで読めばいいのにと。

しかし、最近になって私も最後まで読み通さない本が多くなり、晩年の父の「感じ」がだんだんわかって来たような気がする。最初は面白いと思って読み始めたが途中で飽きて来てしまう、興味が持続しない、読み続ける体力がない、色々な理由はあるが、読まなくても死にはしないしものすごく興味があるというわけでもない本ということになるとなかなか読むのが大変になるわけである。

自分も今になると、ツイッターで署名を知って興味を持った本とかを買ってみてもなかなか最後まで読めないことが多く、感じがだいぶわかってきた。最後まで読めないどころか買って来たのにページを開いていない本もあったりする。これもまあ加齢現象ということではあるだろう。

しかしそれなのになぜ新しい本を買うのだろうか。必ず読むと言い切れない本を、なぜ安くもない値段を出して買うのか。

つらつら考えていて、昔読んだ白洲正子の「今なぜ青山二郎なのか」を思い出した。無類の骨董好きであった青山が死んだのは旅先の地方都市だった。青山は白洲の骨董の先生でもあり、彼にしかないと思える一流の審美眼を持った人だった。その美を見る目は人生そのものであり、人生そのものを賭けて器を見る、というようなことを白洲は青山から教わったわけである。

青山が倒れ、息を引き取ったとの知らせを受けて、白洲は旅先の宿に飛んだ。青山のことだから必ず旅先でも器を買っているだろう。それをどうするかはともかく、その最期を見届けたい、という思いであった、というように記憶している。

案の定、彼の宿には多くの器があった。しかし中身を見てみると、それらは簡単にいえばガラクタのような、青山が買うとは思えないような品ばかりだったのだという。

「青山は、たとえ買うものがなくても買ったのだ」、と白洲はいう。そしてそれはすごくわかる気がした。

父も、晩年はブックオフなどに出かけて私が見ても駄本と思われるような本をたくさん買い、しかも少し読んだだけで投げ出していた。なぜそんなことをするのか、当時はよくわからなかったが、最近は少しわかる気がする。父もまた、「買う本がなくても買った」のだ、と思う。青山が価値を見定め、ガラクタだとわかっていても買わざるを得なかったというのは、ある意味一つの業だったのだろう。

話題になっている本を、自分の目で確かめたい。しかし、それをやっている時間と体力が間に合わない。とりあえず買っておいて時間のある時に読もう。そう思ってどんどん本は溜まっていくのである。

自分の本には、そういうその時なりの自分の理屈のようなものが張り付いているのそれなりに買った理由はわかる。中には「こんな本を買ってしまった」という悔しさが塗りたくられたような本もあるわけだが、そういうものもまた逆に印象に残る。

買ったかどうかわからない本というのはそういう狭間にあるので、ある意味そこは意識と無意識の亀裂、ある種の深淵なのだろうと思う。

その深淵がこちらをのぞくのだ。

青山がガラクタだとわかっている骨董を買ったのも、父が読みもしない駄本をブックオフで買っていたのも、恐らくはそういう深淵に魅入られたようなものなのだろうと思う。

歳をとるということは、そういう深淵にだんだん近づいていくことなのかもしれない。

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