能「安宅」と歌舞伎「勧進帳」をめぐるあれこれ
Posted at 21/08/01 PermaLink» Tweet
朝、車を運転しながらFMを聴いていたらFM能楽堂の時間に華やかな音曲が流れてきたので狂言なのかなと思って確かめたら能「安宅」だった。「安宅」といえば歌舞伎十八番の「勧進帳」の元になった作品だが、勧進帳といえば昔は「勧進帳を読む」という言葉があって、「書いてないものをあたかも書いてあるかのようにすらすら読む」ことの例えとして使われたのだが、今ではそんなこと知られてないだろうなあとかつらつら思いながら運転していた。
この話は源平合戦時代、兄源頼朝の命により平家を壇ノ浦に滅ぼしたものの兄に嫌疑をかけられ、奥州平泉の藤原秀衡を頼って主従が落ち延びていくとき、加賀の安宅の関で関守の冨樫に怪しまれ、それを家来の武蔵坊弁慶の機転により切り抜けた、というストーリーで、昔は常識のようなものだったが、私の子供の頃は弁慶といえば京の五条の橋の上での牛若丸とのエピソードや衣川の戦いでの立ち往生の話は知っていたが、安宅の関の話は知らなかった。これを知ったのは大学で演劇を始めて歌舞伎なども見るようになってからだから、こういう話を子供の頃に知っているかどうかというのも、今で言う文化資本の一つだな、と思ったりもする。
このストーリーがいつ成立したのだろうか、ということが気になって、帰ってから少し調べてみると、もともとは「如意の渡し」のエピソードであることがわかった。これは義経主従が落ち延びる際、越中小矢部川の渡しで渡守に義経であることを疑われたとき、弁慶が義経を打擲して無事乗船できたという話なのだという。
「安宅」は短い時間にいくつもの山場があるけれども、大きくいえば冨樫に疑われた際に諸国に大仏再建のための寄進を求める山伏であると答えた弁慶が、それならば「勧進帳」を持っているだろうからそれを読めと言われて、適当な巻物を広げてあたかも勧進帳であるかのように朗々と読み上げる、というのが一つの山場だ。
このエピソードが面白いから元々の話にこれはあるのかと思っていたが実はこれは「安宅」の作者の創作であるようで、最初のエピソードは「義経記」に書かれている上記の「如意の渡し」での義経打擲の方だった、というのは今知って、へえそうだったのかと思った。「安宅」はのちに七代市川團十郎によって歌舞伎化され、「勧進帳」という題になっているようにむしろこの「勧進帳」のエピソードが中心だと思っていたので古い形にはこれがなかったというのは意外だったが、確かに考えて見たらこれは創作的なエピソードで、咄嗟に打擲した、という方が古態に近いだろうなと思った。
しかしこの勧進帳のエピソードが生まれたことによって、武蔵坊弁慶のイメージが、ただの乱暴者、ただの忠義者のイメージから主君の危機を冷静に切り抜ける豪胆さと咄嗟の際に書いてもいない勧進帳を朗々と読み上げることのできる深い教養の持ち主である、柔と剛、知性と胆力と忠義を兼ね備えたまさに男の中の男、というイメージに昇華されたのが面白いなと思った。
「安宅」では義経は子方の役であり、誰がやっているのだろうと調べてみたら武田孝史という名があり、とてもいい声だなと思ったのだが、調べて見たら昭和29年生まれの宝生流のシテの方だとわかってちょっと驚いて、最後まで聞いたら世阿弥生誕600年を記念して制作されたレコードだということがわかった。世阿弥の生誕は1363年とされているので、つまり1963年の制作、昭和38年だから8歳か9歳ということだとわかった。私が1歳の頃の企画であることに驚いた。
歌舞伎の「勧進帳」では義経は子方ではないのだが、これは小型でこんなにいいのなら大人の役者がやればもっといいに違いない、という発想があったのだろうなと思った。九代目團十郎が弁慶を演じた天覧歌舞伎では、初代市川左團次が冨樫を、のちの五代目中村歌右衛門が義経を演じている。私が見た時の配役はちょっと自信がないのだが、確か弁慶が十三代目市川團十郎(現在の海老蔵の父)、冨樫は現在の十五代目片岡仁左衛門、義経は現在の坂東玉三郎だったと記憶している。義経は二枚目か女方が演じることが多いように思う。アイドル的な意味があるのだろう。
後もう一つ調べていてへえっと思ったのは、第三の見せ場ともいうべき危機を脱した後の主従の会話、そしてその後に富樫が追いかけてきて酒を差し入れ、酒宴になるのだが、これが「富樫が油断をさせようという企み」であったということで、弁慶は油断なく義経を逃すのだが、この辺りのキリは歌舞伎とは結構違う演出になっているようだった。この「富樫の企み」という設定自体を知らなかったので、冨樫はただ「見逃してくれて酒までくれるなんていいヤツ」だと思っていたので、なるほどそうだったのか、と思ったのだった。
物語の成立を考えてみると、「安宅」の元になった「義経記」自体の成立が南北朝時代から室町初期とされていて、「安宅」の初演が1465年で応仁の乱の直前なので、割合新しい話を元にした創作なのだなと思った。能といえばやはり幽玄というイメージだったからこの華やかな音曲は少し意外だったが、作者は小次郎信光に擬せる説があるようで、信光は幽玄を追求した世阿弥とその子元雅とは対照的に、「風流」、今でいうショー的要素が重んじた、という話が面白かった。
世阿弥系と音阿弥系の勢力争いなどはちょっと今般の芸能界などを思わせるものもありアレなのだが、今モーニングで連載されている三原和人「ワールドイズダンシング」が世阿弥が主人公であることもあり、それを読んでいて能について少し関心が出てきていることもあって、この辺りについて少し調べて見たのだった。
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