1600年の日本の人口はどれくらいか/「悟り」や「神秘体験」との付き合い方

Posted at 21/07/15

昨日はあまり大きな夕立はなく、割と落ち着いた空だった。今朝も雨を心配していたが、ほとんど降らずに済んだ。

ここのところどうも低潮期という感じで何もしてない、何もできない感じなのに少し動くとすぐ疲れるという感じになっている。まあこういう時はあまり無理をしないで過ごすのが良いのだが、しないといけないことも忘れがちでその辺も困る。

日本の人口の歴史的推移について、江戸時代中期に約3000万人いたことは享保時代の調査でわかっているのだが、速水融は1600年の人口を1200万人と推計しているが、今読んでいる「中世は核家族だったのか」によれば1700万人とされている。これは著者の西谷さんが共著者である「岩波講座 日本経済の歴史」の見解でもあり、この辺りは江戸時代前期の大開墾時代の人口増をどう評価するかという問題ともに、戦国時代の領国支配体制によってどれだけ人口増がもたらされ、戦乱によってどれだけ民衆が死んだかという評価の問題が出てくるのだなと思った。最近の説では1200万人という方が強いようだけど、敢えて1700万人説をとっていることについては、ちょっと読んでみないとと思った。

「レンマ学」を読み、それに関連して中沢新一さんのWikipediaの表記等を読んでいて、神秘体験の絶対化がもたらしかねない反社会性・反人間性の問題について少し考えた。

これはインチキ左翼やインチキエコロジストの問題とかと通じるものがあるようにも思うが、つまりは神秘体験が自我にもたらす特権意識みたいなものがあるという問題なのだと思う。自分の自我を特別視・絶対視させ増長させるという問題。これは禅においては野狐禅の問題として一般化されている。

神秘体験とか悟り体験というものは個人にとっては大事なものだしそれを大事にするのはいいのだが、基本的にそれは心の中に起こった現象なので、それは「そういうもの」だと考える冷静さと謙虚さがないと道を踏み外しかねないという問題がある。作家とか学者とかにありがちな自己の霊感の絶対視みたいなのも結局同じ現象なんだろうと思う。

ただ、アルキメデスが難問を解いてユリイカと叫んで風呂から飛び出したように一瞬有頂天になるのも人間として微笑ましくはある。しかし、悟りの世界・神秘体験の世界では、ブッダのように悟りを開いてもそこから天魔との戦いや自己の悟りへの確信に至るまではまだ長い道があるのが一般なわけで、そこで道を踏み外してしまうのは枚挙にいとまがない。結局は凡人ということになるのかもしれないが、その害悪は人類史に残るほどのものがあるようにも思う。

また、安全な世界で開いた悟りというものが乱世でどれだけ通用するかと言えば痛々しいことになってしまう例もまた歴史は事欠かない。

だから大事なことは、「悟りを開く」「神秘体験をする」というのがゴールではなく、そこからが「人生」の始まりなのだ、ということなのだと思う。その体験を自分のものにして大事にするのもいいし、人に伝えようとして努力したり、また世の中を変えようと頑張るのもまた人生なんだろうと思う。ブッダでさえ、まずは菩提樹下でその悟りを愉しんだ。

禅の悟りを表現した十牛図でも第九「返本還源」から第十「入鄽垂手」のように、それを経験した人間として世の中で生きる、ということに意味があると考えるべきだろう。つまり、本当に難しいのはそこから、ということになる。

わかったようなことをいう人たちは世に多いし、自分もそう言う側に回りたいと言う思いを持つ人もまた多いだろう。ただそれらの言説・教説が本当に世の中を良くしているかというと首を捻ることも多い。掴んだ内容の正しさと言う問題もあるが、それをどう使うかと言うのもまた問題になるわけで、仏教的に言えばそれは方便(あるいは手段)という問題になるだろう。

学んで思わざればすなわち暗く、思いて学ばざればすなわち危うしと孔子が言うように、思想とそれを持っての現実世界への対応の問題は終わりのない問題であって、いつまでも問い続け、答え続けなければならない問題なんだろう。

そして繰り返しになるが、そういう心的世界に起こったことは起こったこととして冷静に捉え、また謙虚にそれについて捉えておくことが学びの局面に関しても同じことなんだろうと思う。

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