自分の精神世界の再構築/「アップデート」と古典的正統性

Posted at 21/06/22

新型コロナ流行が叫ばれてからもうすぐ一年半になる。最初の感染者が見つかり、中国からの春節の観光客などが問題になったのが去年の1〜2月、最初の緊急事態宣言が出され学校が休校になったのは2月の終わりだったと思う。

私の生活も大きく変わり、東京に帰ることなく、実家の方にずっといるようになっているわけだが、東京の家と違って自分にとって暮らしやすい、生活しやすいような整備はあまり行ってこなかったなあと考えていて気がついた。

実家はもともと私だけが暮らしている家ではないから自分にとって最も過ごしやすい、生活しやすい家ではないわけだが、母が施設に入ってからは結局自分しか使う人間はいないという状況になって、家のどこに何があるかという最初のところからわからないところが多いし、兄弟も含めて子供たちがいなくなり、父も亡くなってからは母の生活の癖のようなものが強く出た状態になっているわけだけど、そういうものは自分の生理的な感覚とは結構違うわけで、家の仕事を母がやっていたうちはともかく、自分がやるようになるといろいろと使いにくいところ、感覚が合わないところが強くなってきていた。

自分のプライベートな空間はそれなりに整備はしていたが仕事が休みの時は東京に行っていたので自分としては不十分なところが多い。東京の家も完全に満足がいく状態であるわけではないのだが、それなりに暮らしやすくはしてあるし、何しろ東京なら出かけてそう遠くないところで自分のセンスに割合合うものが手に入ることもあり、整備しやすいということもあった。

最近どうも自分の部屋にいてもあまり落ち着かないなあと思っていたこともあり、東京に行きたいなあとずっと思ってはいたのだが、銀座や神保町、新宿や下北沢などの街ももう去年の3月以来ずっと行っていない。これは母の入居している介護施設で他県の人との面会を禁止するという措置がずっと続いていることが大きいのだが、感染防止というのは結局は「そういうところに行かないこと」としか言いようがないということもあり、まあ仕方がない。

最近は時々松本に出かけて丸善で本を物色したり、老舗の和菓子屋の喫茶室でお茶を飲んだりして気晴らしをしているが、最近、自分の空間自身が自分の趣味性・文化性が足りないということに気がついた。東京の自分の部屋にいるとそういうものに囲まれているので落ち着くが、こちらは未整備な部分が多く、容易に外部性の強いものが滲出してきて自分の世界が危機に陥りやすい。

こちらでもインターネットはできるわけだし、書店に行ってもマンガは大体手に入るから、そういうものが世界との接点になると、どうしても文化性は足りないということになる。

そして、残念ながら自分が欲しい文化性みたいなものをネット上で持っている人は自分とは政治的意見のようなものが合わない人が多く、あまりそういうサイトなどに行きたいと思わないということもある。

まあ、そういう意味で言えば実家の方を腰掛け的に考えていて、自分の世界は東京にあればいいという感じだったのだなと改めて気づき、ちょっと反省した。

やはり、どこにいる時でも自分の世界をちゃんと構築しておかないといけないなと。

まあそんなことを考えながら、ちょっと自分の空間を再整備しようと思っている。仕事や生活の上でも環境整備はもっとちゃんとしないといけないなと思ってはいたのだが、文化的な生活基盤と自分の精神世界を整えるためにも、環境を構築して行かなければと思う。

***

精神世界ということで考えてみると、自分のそういうものは若い頃に異様にたくさん読んだ書籍などによって構築されている部分は多いわけだけど、1980年代と今とでは「常識」みたいなものもすでにだいぶ変化しているし、世界自体も変わっているし、また研究の進展により当時は常識だったものがかなりそれが危なくなったりしていることもあり、またネオリベラリズムの進展や思想対立の激化などによって社会の仕組み自体も変わろうとしているところもある。

リベラルやその中でも特にラディカリストは「常識をアップデートしろ」と盛んにいうわけだけど、それはニュートラルな立場から言っているわけではなくて、つまりは自分たちの主張に則って従来の思想を棄て我々の側に立てと言っていることが多く、そういうものにはなるべく抗して行かないと危ないことになる。

科学や技術のレベルで新しいものに対応していく必要が出てくるのは仕方ないのだが、政治的・経済的・社会的なレベルでの主張に関しては妥当性をきちんと吟味する必要があり、また主張の分かれているものに対しては自分の立ち位置をとりあえずでも定めておかなければならないこともある。ただ、一般的に言えばラディカルな主張は冷静にきちんと検討しないといけないことが多いことは明確だろうと思う。

80年代にあった社会主義国に対する希望であるとか、堤清二的な文化的な生活への期待みたいなものが、やはり自分の中には残っているところがある。前者はもうほとんどないが、考えてみると「自分の世界構築」みたいなものへの希望は後者のセゾン文化的なものが自分の中に色濃く残っているということでもあるなと思う。

ただまあ、自分のそういう指向性は大学生になって東京に出てそういうものに多く触れるようになってからどんどん大きくなったということはあるにしても、すでに小学校高学年から中学生のころにはかなり強くあったので、セゾン的なものが全てではないにしても、元々がハイブランドに囲まれた貴族階級の出というわけではないしそれに対抗するデザイナーズブランド的というかモード的な趣味が足がかりになっていることも確かなわけで、やはり自分にはクラシック性、古典的正統性のようなものが足りないということは常に思う。

現時点でそういう世界との交流がないからまあそれが不足していることは已むを得ないのだが、まだまだ人間として求めていくべきことの先は長いなとまたこの文章を書きながら思った。

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