乗り越えるべき敵としての藝大教師/反知性主義と愛と冷笑

Posted at 21/06/01

日曜日の夕方に岡谷の書店に出かけて国谷裕子「クローズアップ藝大」(河出新書)と内田樹編「日本の反知性主義」(晶文社)を買ってきた。

クローズアップ藝大 (河出新書)
東京藝術大学
河出書房新社
2021-05-21

 

「クローズアップ藝大」は書名を見、中身をパラパラとみてすぐに買うことを決めたのだが、「日本の反知性主義」の方は散々迷った。なにしろ内田樹氏をはじめとして白井聡氏、想田和弘氏など自分にとっては「敵」と感じられる人々が名を連ねているし、彼らが「日本の反知性主義」を論じ出したら何を言いそうかということはだいたい想像がつく、みたいな感じはするわけで、またオレンジとグリーンを基調にした表紙デザインも読みにくく、普通だったらまず買わない内容なのだが、なにしろ立ち読みした時の内田さんと名越康文さんの対談が面白く、その部分だけでもどうにも欲しくなってしまったのである。

この40ページのために1760円を払う価値があるのか、と散々考えたのだがまあこの値段でそれくらいしか読まないで放置してある本などたくさんあるということもあり、読む価値がある部分があるということだけである意味希少な本であるという時代ではあるわけだから、結局買うことにした。内田さんの本は以前はずいぶん買っていたのだが最近は読まなくなっていて、ある意味内田樹論みたいなことも考えてみるのには意味があるかもしれないとも思うので、それを含めて他の部分も少しずつ読んでみてもいいのではないかという気もした。

「クローズアップ藝大」は、最初の彫刻家教授・大巻伸嗣さんと国谷さんの対談のところまで読んだ。いろいろと芸術というものについて考えるところはあり、やはりどうしてもこういう立場の人は上から目線になるんだなと思うところはあったが、面白いというか自分が食いついたのは大巻さんが「教員は大学で学生が乗り越えるべき敵にならなければいけない」というところだった。

教員、教育者というものがどういうものであるべきか、ということに関しては自分もそういう仕事をしていることもあり、考えるテーマではあるけれども、「乗り越えるべき敵」という設定意識は割とへえっと思うところがあった。

これは割と古風な考え方でもあるけれども、もともとは「子供が乗り越えるべき第一の敵」は親なわけである。男子が乗り越えるべき敵ないし障害はもともとは父であるという考え方はずっとあるわけで、それは心理学的にはエディプス・コンプレックスと呼んだりしてきたわけだが、アートにおいて、特に大学においては「大学の担当教師」こそが乗り越えるべき敵として考えられている、少なくとも教員の側はそのように考えている、というのは考えようによっては割と熱いなと思った。

それで思い出したのが漫画「ブルーピリオド」なのだが、主人公・矢口八虎は高校2年で藝大受験を志し、高校の美術教師や予備校の教師の支援を得、さまざまなライバル=友人との関わりもあって現役で藝大に合格するわけだが、入学後は酷いスランプに陥る。それは主に教授たちとの関係によるのだが、3人の担当教授である盧生・猫屋敷・槻木それぞれとの関わりが描かれていて、最初に盧生に「受験絵画は捨てろ」と言われて自分のやってきたことがわからなくなり、迷いの末に出した作品を槻木に「ひどいね。講評しなくていい?」と言われ、完全に迷いのどん底に落ちてしまった後、次の課題で猫屋敷に「作品を作るとはどういうことか」というレクチャーを受けて頑張るものの、他の学生とのレベルの違いに悩んだり藝大祭で他の学生との繋がりが深まったり、まだまだ悩みのどん底にいたりするわけである。

また予備校時代からの友人で同じく藝大に現役合格した高橋世田介は超絶的に絵が上手く八虎はコンプレックスを感じるわけだが、彼は人から何か言われるのが苦手で猫屋敷の強引なアドバイスを受け入れることができず、藝大をやめる寸前にまで追い詰められる。

まあ正直、「大人との関係」というものが藝大入学前と入学後では百八十度変わってしまうわけだけど、この辺りはどういうことなんだろうなと割とわからずにいたのだけど、この大巻さんの「大学の担当教員は乗り越えるべき敵でなければならない」というアツさを読んで、なるほどそういうことなのかと思ったわけである。

最初の作品だけでなく進級制作に対しても厳しい評価を下す槻木は、八虎に対してある意味「敵」であろうとしているわけで、逆に言えば助け舟を出した猫屋敷はそこまで八虎を評価していないということでもあるのだなと思う。逆に猫屋敷は世田介にぐいぐい自分の主張を押し付けて「このままでは何者にもなれないよ?」とか強いことを言って「何者かになる権利はあっても何者かになる義務はないと思います」と反撃を受けたりしているわけだけど、猫屋敷はそういう形で世田介の敵であろうとしているのかもしれないなと思ったわけである。

まあこういう圧迫指導・スパルタ指導みたいな感じのことは最近あまり読んではいなかったので、アートの世界にそういうものが残っているのはある意味面白いなと思ったし、まあやはりそこに熱いものはあるなと思うのだが、それで潰れていく学生もたくさんいるだろうなと思うし、「ブルーピリオド」の中では「まあそれもやむなし」みたいに語れている描写がいくつもあるのでその辺りのところがどういう感じになっていくのか、また先が楽しみになったというところだ。

日本の反知性主義 (犀の教室)
鷲田清一
晶文社
2015-03-20



「日本の反知性主義」の内田樹・名越康文両氏の対談は、久々に内田さんのいうことが面白いなと感じられたところと、ある意味この人の限界だなと思うところが再び見えた感じのところがあって、そこら辺がまた面白くはあるのだけど、やはり名越さんのいうことが面白かった。内田さんは対談などでも割とハマると相手の面白さをすごく引き出すところがあって、その意味ではこの対談は今まで読んだ名越さんの本の中でも出色の面白さだと思ったのだけど、あるところに来ると急に内田さんが響かなくなるところがあって、そこがおそらく内田さんの個性ということなんだろうと思うけど、この辺のところはまたどこかで書くこともあるかもしれない。

私がそういう意味での内田さんの個性みたいのを感じたのは本というよりもネットで書いている言説を読んでのところも大きく、特にいわゆる「氷河期世代」をこき下ろした内容のところでこれはダメだなと思ったのが大きかった。どちらが先かはもう忘れてしまったが、もう一つは橋本治さんとの対談本で、ジャンルによっては内田さんの対談本はとても面白いのに、この橋本さんとの対談は橋本さんの面白さに内田さんが全然ついていけてない感じがして、その辺でこの人って?と思った感じがあった。

今回も「え?」と思ったところがあったのだけど、それは名越さんが「奈良の人は地元でものを買わず同じものでも大阪に行って買う。郷土愛がない」という話をした時で、この「愛」というテーマについて話が展開していくのかなと思ったら、「死者との共感」という話に内田さんが言い換えてしまったのを残念に感じたのだが、内田さんは要はこの「愛」という話が苦手なんじゃないかと思ったのだった。それを言ってしまうと、つまりは橋本治さんとかほとんどある意味「愛」の話しかしてないわけで、その話が苦手だからその話についていくセンスがない、ということなんじゃないかと思ったのだった。氷河期世代の話もやはりこれはあまりにも彼らに対する愛とか同情心に欠けているなと思ったのだなと今では思う。冷笑と言っていいかどうかは別としても、いわゆる反知性主義と結び付けられて語られることのある冷笑主義的な物言いをどう評価するかというあたりに関しても、割と内田さんという人の言説には考察すべきところがあるのではないかと思った。

愛というのは本当のところ、知性の重要な要素なんだと思う。哲学のギリシャ語がフィロ(愛)ソフィア(知)というくらいだから、知というものへの愛がなければそれは知性主義ではないだろう。そうなると、知とは何か、愛とは何かということを考えなければならないのだが、まあ内田さんのことはともかくその辺のあたりは考えていくべきテーマだと思う。

そして、この本に関しても他の人の言説をちょっとだけは読んだのだが、「反知性主義」というものについてそれがどういうことだろうという疑問を呈したり、あるいは「それはいけないことだろうか」という疑問を呈したりしている人は、割と信用が置けると思った。「反知性主義」という言葉は私はアメリカの思想動向、つまり「エリート的な啓蒙主義に反対する信仰の側からの反撃」という本来の意味を押さえて語るべきだと思うし、実際のところ「エリートリベラルの冷たさ」や「信仰者の熱情」みたいなものについて読んでいるとどちらが本当に知性なんだろうと疑問に思うところもあるわけで、少なくともそのくらいの深みからは発言して欲しいなということはこの件については思うのだった。

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