パンとサーカス:日本人に欠けているもの

Posted at 21/05/16

子どもの遊びといえばおもちゃなのだけど、その遊びにも変化が出ているかもしれないという話があった。

https://prehyou2015.hatenablog.com/entry/supersentai

本題はそれではないのかもしれないのだけど、このブログの記述の中に

「コンテンツへの接触機会もテレビ中心からWEBに移ることにより、
「おもちゃで遊ぶのではなく、おもちゃで遊ぶYouTubeを見て満足する」
みたいな事も起きている様ですね」

という記述が出てくる。それについて漫画家の矢野健太郎さんがTwitterで

https://twitter.com/yanoja/status/1393083919348559873

と書いておられるのを読んで、ちょっとそうかな?

と思ったのだった。どういうことかというと、この「人が遊んでるYouTubeを見て満足する」子どもたちがいるということ、そしてその楽しみ方は十分理解できる、と思ったということだ。

例えば大人でも、自分で野球しなくても野球するの見てると楽しいっていうのはある。もちろん相撲でもそうだ。つまり「観戦」も十分娯楽だということ。要するに、「遊ぶのを見ている」というのもある種の「観戦」なんだと思う。そんなに特殊なこと、大きく起こった変化ともいえないんじゃないかということだ。

もし変化があったとしたら、我々の子供の頃には「おもちゃで遊ぶ動画」がなかったということで、だからそういう楽しみ方がなかったということだろう。自分が子どもの頃にプラレールとかで遊んでいる写真は残っているし、それを見ているとけっこう面白いということはある。子供もまた映像がとても好きだ。戦隊ロボでYouTuberが遊ぶ動画というのは「体操のおにいさん」を見ているようなものかもしれないと思う。

これはもちろんタイプによるわけで、観戦するだけで満足するタイプもいれば自分でやらなければ気が済まないタイプの人もいて、自分でアクティブにやるタイプの人から見ると、「遊ぶことさえ自分でやらないで見てるのか」とショックを受けるかもしれないが、子供目線で考えてみればああいうもので遊んでいる時に積極的に自分で遊ぶ子供ばかりでないことはわかると思う。言われないと参加しない子供や言われても見ているだけで、それでいて別に疎外感も感じている感じではない子供というのはいるわけである。

大人で考えてみてもそうだが、例えばTwitterなどで政治に文句を言っている人達も、明日から政治のプレイヤーになってやってみろと言われてもほとんどの人が尻込みするだろう。「観戦」だから「楽しい」し、「蘊蓄」を言ったりして楽しんでいるというのが本当のところだろう。

これは職業的なものもそういう傾向が強くなっている気がする。実際に実業を起こしたりしてもなかなかうまく行かないしうまく行っていてもマスコミはそういう人を叩くのを仕事にしているわけで馬鹿らしい。マスコミ関係も自分で制作する人だけでなく自分は安全なところにいて人を叩くの専門の人が出世したりする。

最近は東大生の就職希望第一がコンサルになっているようだけど、そういうのも同じ問題があるのかもしれない。自分がプレイヤーになるより安全なわけだから。そして、そういうお得な「傍観者+助言者」ポジションというものを叩く文化は基本的には日本にはない。

今年(2021年)、プロ野球で阪神タイガースが強いのは、コロナ禍でタニマチから呼ばれる宴会が少ないからだという説があり、助言者気取りの傍観者たちがプレイヤーたちに悪影響を与えていたのではないかということが露わになってきた感があるけれども、「タニマチの接待もプレイヤーの仕事」みたいな感じの方が日本では今なお強い。それをしない選手はどちらかというと「孤高」などのレッテルを貼られて敬遠される傾向にある。

「プレイそのものより観戦が娯楽であること」、つまり真の娯楽は「パンとサーカス」であることという、ある種の人間性の本質がここに現れているのだと思う。

これは日本だけではなく、人間というものの本質的な傾向なのだと思うが、日本は特にその傾向が強いように思う。

第二次大戦中も、プレイヤーである指揮官よりもコンサルポジションの参謀の方が権力を持っているという逆転した現象が日本では起こっていた。これは日本の陸軍組織がドイツ式、つまり強力なドイツの参謀本部を雛形として作られていたということもあるが、辻政信をはじめとして参謀が独走的に事態を動かして失敗するという局面が多くあった。しかし極東軍事裁判で重い罪に問われたのは参謀ではなく指揮官であり、これは英米型の指揮官を中心とした考え方、つまり「参謀よりリーダー重視」の側面から指揮官たちの罪が問われたということなのだと思う。

政府組織にしても実際の政策のプレイヤーであるところの各省の官僚やリーダーであるべき大臣より、それを査定する財務省の官僚の方が上だという構造になっている。こうした文化もまた日本人の体質にあっている部分があるのだろうと思う。

逆にいえば、なぜ他の諸国はそうなっていないのか。中国やロシアなどのように独裁者型の政治家が好まれるタイプの政治文化もあるが、英米のような「民主主義国」でもリーダーはリーダーであり、参謀は参謀である。たとえ参謀の方が優れていたとしても、リーダーには必ず従う。だからリーダーに問題があると江戸時代の「押し込め」のような感じでトランプが追放されたりしたわけだが、特殊なケースを除いてそういうことは起こらない。

これは、英米には「参謀よりもリーダーを育てる文化」があるということなのだと思う。子どもの頃から出る杭は打たれるタイプの教育をしている日本と違い、リーダーとフォロワーの教育がしっかりなされているように感じる。もちろんそれはそれで弊害はあるだろうし英米の教育にも改善の余地は大いにあると思うが、「生意気な参謀」ばかりを育てる日本の教育よりはうまく行っているのが現状なのだろうと思う。

この辺は「狩猟文化」とか「農耕文化」とかの文化の型とかの話になるのかもしれないが、その辺の信憑性には自信はないのでそれ以上の展開はしないけれども、もしそれが文化の型のようなオートマチックな話ではないのだとしたら、英米の文化には「観戦の方を好む」という人間性の本質に「あえて」逆らって「出る杭を伸ばす」文化が英米にはあるということになるだろう。

私は以前も書いてはいるように、日本の現状の最大の問題点は「リーダーを育てる」という点にあると思う。「リーダー育成文化」といえばいいだろうか。これが曲がりなりにもうまく行っているのがスポーツ系、体育会系なので、日本でリーダーといえば体育会系、みたいな感じになってしまっている側面もあるのだと思う。しかし体育会系のリーダーは昔とはだいぶ違ってきているとは思うが精神論、根性論に走りがちの傾向があり、合理的な判断を好む人からは煙たがれる傾向がある。

例えば松下政経塾などはこの辺を目指したのだろうとは思うが、残念ながら十分にリーダーシップを取れるタイプの政治家は育ってきていない。この辺はどこに問題があるのかはわからないが、何か本質的なところに欠ける部分があるのだろうとは思う。しかしこの辺りが改まらないと、日本の全般的な退潮はなかなか回復できないようには思う。

最初の話に戻ると、つまりは矢野さんの危惧を共有するとすれば、「遊びですら自分でやらずに満足する子供達」が増えてることだろう。自分がプレイヤーにならず、ましてやリーダーになどならず、ただ傍観者でいることに満足する子どもたちが「増えて」いること。

ただ、子供達の中にはもちろん、「見るだけで満足できずに自分でやりたいと思う」子供達はたくさんいるだろう。子どものそういう面を育て、さらにはその遊びの中心になれるリーダーシップを育てていければさらにいい。

「パンとサーカス」に甘んじず、リーダーシップが取れる人間が育っていくように、我々はもっと工夫していく必要があるのだと思う。

* * *

蛇足だとは思うが付け足しておくと、本来はリーダーシップというものは特定の人間が取れればいいというものではないと思う。場面を変えれば、違う人がリーダーになるということはあることで、今の日本では特定の人がどの場面でもリーダーシップを取ってしまう傾向があるけれども、場面によってリーダーとフォロワーの立ち位置を自由に交代できるような人間性のあり方が理想だろうと私は思う。

まあこれはいうほど簡単ではないのは確かだけど、リーダーシップというものに生理的に反発する人がいるのでそういうものではなくて、人間は誰でもリーダーになりフォロワーになるべきものだ、という考えを前提として書いているということを為念として書いておきたいと思う。

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by Luke Peterson

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