「人権」をどう考えるか/「攻めの手段」としての憲法/「昔から変わらない日本人の心・美意識」をどう考えるか
Posted at 21/03/10 PermaLink» Tweet
保守主義とは何か、今の日本においてこれをまともに思想形成していくためにはどうしたら良いか、と言うことを念頭に保守主義というものについて考えてきているわけだけど、明治の思想史についてみているうちに「契約国家観」と「有機体国家観≒法人国家観」の相違に行き当たり、このあたりの溝をどう考えるか、どう越えるかというのはそう簡単ではないなと思った。
ただ、これは例えば憲法について考える上では重要なことで、自民党などのいわゆる保守派は憲法改正を主張したり帝国憲法の復活を唱えたりするが、憲法観すなわち国家観についてあまり原理的に考えている感じがしないのは、この日本国憲法が基づいている「社会契約論」=「契約国家観」と帝国憲法が基づいている「有機体国家観≒法人国家観」のどちらを選択するかといった根本的な部分について考察がなされておらず、日本国憲法や帝国憲法の条文を気に入らないところを好きなように書き換え、「ぼくがかんがえたさいきょうのけんぽう」を作りました、みたいな感じになっているのが問題なのだと思う。
この問題はかなり大きい問題で、「人権」というものを「普遍の原理」、つまり憲法や法律の如何に関わらず存在する自然権、法の制定前からある権利=制定前権利であるというのが日本国憲法の主張な訳だが、帝国憲法ではその立場を取らず、憲法の制定により、つまり国家が道徳的に進歩した結果として国民が得るべき権利=制定後権利としてかんがえられているわけだ。形式的には「天皇により恩恵として与えられた」形だとよく学校では教えられるが、より中立的に言えば法の制定により発生した制定後権利である、ということになるだろう。
現実問題としてこれは大きい問題で、人権が制定前権利であるという主張によってアメリカなど契約国家間の国は中国の民族政策、ウィグル問題やチベット問題を批判しているわけだ。近代国家に主権があるというのは大原則であるが、その大原則の前に人権があるという主張なわけで、そこに中国は反発している。中国は一党独裁国家であって党の指導によって政府が運営されるプロレタリア独裁の社会主義国家モデルを採用しているわけだから、彼らの国家観は社会契約に基づく契約国家観ではない。従って内政については全て国家主権が優先するという主張であり、国家の統一を乱す勢力を弾圧するのは当然であり主権国家の権利であると考えるわけである。
アメリカの外交はカーター政権以来「人権外交」と呼ばれることがあるが、これは彼らの国家観に基づきそれをカードとして諸国にその思想への服従を要求するものだから、アメリカのもつ一面である世界政府的性格、といったら言い過ぎならばウィルソン以来の「世界の警察」的側面(=世界は正義を実現すべきで、その正義は我々アメリカの正義である)が強く現れている。これはよく言われるようにアメリカが持つもう一つの側面である孤立主義の側面からたびたび逆襲を受けているわけだが。
したがって、もし日本が人権を制定後権利であるとする憲法を採用するなら、こうした中国への非難をアメリカと共に行うことはできない。というか日本自民党政府の人権状況に対する各国への批判が弱いのは、根本的にこの憲法の性格によって国家を運営していこうという気構えが基本的にあまりないからということはある。自民党政権の中にも、日本国憲法はアメリカによって押し付けられた憲法であるという認識は強くあり、それを武器として使うという発想はない。吉田茂のように日本国憲法の平和主義を逆用して再軍備を自衛隊にとどめるというような消極的な利用に終始している。
「憲法上の制約でこれはできない」ということはあっても「日本国憲法の理念に基づいて日本は各国にこれを要求する」ということは行っていないわけだ。そこに日本国憲法の弱さがあり、また日本外国のプリンシプルが曖昧になりがちな要因があるようには思う。
韓国などは憲法に1919年に成立した「大韓民国臨時政府の法統を受け継ぎ」と書くことによって、日本の植民地支配を違法なものであったと主張し、それを日本に認めさせようとしているわけで、憲法を外交の材料に積極的に使っているわけである。日本もそういう意味では国民の大多数が本当に納得できる形に憲法は改正されるべきだとは私も思っている。ただ上に書いたように、根本的な議論が必要だということは押さえておかなければならないと思う。
思ったより「国家観の相違の問題」について長く書いてしまったが、今日書こうと思ったのはそこではなくて、ツイッターで読んだ国語の先生の発言から考えたことを書こうと思っていた。
「昔から変わらない日本人の心、美意識」というものはほとんどが近代に作られた「幻想」に過ぎない、という主張である。
これは最近よくみられる議論で、「昔から変わらない日本人らしさ」とか「日本人の遺伝子に刻まれた美」あるいは「武士道精神」みたいなものは本当に昔(一体どれくらい前からのことを指しているのか)からあるものではない、「それは幻想であり、国家や教育によって美化された観念に過ぎず、本当の昔からの日本の姿などではない」という主張である。「日本の素晴らしさというもの自体が神話である」と考え、それを脱神話化しようという主張で、多分左翼の人なんかが好きな主張だろうと思う。
これはまあその通りなのだけど、逆に言えば「それのどこが悪いのか」という問いの立て方もある。保守の人たちは概してこういうことを言われるとすぐ頭に血が上り、「そんなことはない、武士道は〜、茶道は〜、歌舞伎では〜、源氏物語では〜」みたいなことを言いたくなるわけだが、まあそれ自体が彼らの術中にハマっているのでその議論に付き合うこと自体が全く建設的ではない。
逆に言えば、「昔から変わらない日本人の心、美意識」というものを好む人たちは概ね保守的な心情を持っている人たちだと考えられるわけで、私などからすればそれを「保守意識」「保守主義」の源泉の一つと考えられるのではないかという期待があるわけで、同じ脱神話化であっても、より豊穣な方向に脱神話化し、日本人の財産にしていきたいという気持ちがあるわけだ。
つまり、「明治精神」という言葉が例えば出光佐三のような「民間の保守論者」によって強調されるように、この「昔から変わらない日本人の心、美意識」とされるものも明治以降に形成された日本人の美意識が日本の歴史の中に投影されたものと考えるべきで、歴史や伝統的な芸術や古典文学にその淵源を求めて脱神話化に対抗しようとしてもあまり意味はないのだ。
ということで、「日本の美しさ」「日本人の美しさ」「美しい日本の私」「美しい国、日本」という発想がどこから出てきたのかということをまず考えてみたい。
私はこれは、幕末以来の日本を訪れた外国人の日本評である「美しい国」という言説、つまり「他者から見た自分」というものを自分の評価、自分の本質であると考えて内面化したことによって生まれたものだと思う。
幕末明治以来、というか現代でもそうだが、欧米にない、日本にしかない文化を求めて来日し、それを称賛する外国人は多い。そして多くの日本人はその評価を多少くすぐったいものと感じながら、悪い気持ちはしないでいる。保守派の人々の中にはそれに力を得て、「そうなんです!日本は素晴らしい国なんです!素晴らしい伝統があるんです!」と力説したりする人たちもいる。
これは例えていうなら、顔立ちが美しく生まれた女性が皆からちやほやされ美人だと言われて、「自分は美人である」というアイデンティティを獲得し、美人らしく振る舞うということに似ている。つまり他者からの評価が内面化しているわけである。それで高慢に振る舞うバカな女性もいるが、その外面の美しさ、評価に内面の美しさをも加えようと努力し、より魅力的な人になっている人もいる。現在の日本の「いわゆる保守派」がどちらの人が多いかというのはいうだけ野暮というものなので触れないが、もちろん後者を目指さなければ意味はない。
しかしもう一つ考えたいのは、外国人が日本を魅力的と評価する理由についてだ。これは昔からよく言われるように、海外における日本の紋切り型のイメージとして「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」というものがある。この言葉を聞けば嫌なイメージを持つ人も多いと思うが、多くの場合の外国人が見る日本の美しさというのはそういう部分がないとは言えない。
これは言葉を変えて言えば「高貴なる野蛮人」のイメージである。「文明化はされていないが気高さを持っている」というイメージであり、まあ気高さはないよりはあったほうがいいが、「文明化されてない」という部分にはやはり多くの人が引っかかるだろう。
だから逆に言えば日本では古くから文化論が盛んなわけであり、日本は中国とは別の文明であるという主張もあったりして、色々な意味で日本は他者から、外国人から、特に帝国主義時代以来の覇権国家群である欧米人の評価を強く気にする他者志向型のアイデンティティに陥りがちなわけである。
この辺りはもちろん欧米の思考そのものがカルチュラルセントリズム(自文化中心主義)に基づく偏見であり、オリエンタリズムであると批判されてきているけれども、こうした評価が日本人の内面性・自己認識に強く関わってきている以上、無視すればいいというわけではなく、また歴史や文化の中に投影された「美しい日本」イメージも全く根拠のないものでもない以上、その辺りを見直して日本人の財産として持ち続けたほうが良い部分をちゃんと見直していかなければならないと思う。
もちろん、そうした「日本人の昔からの美意識」意識というものが裏目に出ることもある。これは例えば「武士道」精神の誤解に基づく戦陣訓、「生きて虜囚の辱めを受けず」であるとか、「玉砕」の美意識とか、自己犠牲を義務付ける特攻隊などの「統帥の外道」が行われてしまったということで、これはマイナス面として強く日本人の心に残り、「日本人の心」「日本の美しさ」に対する反発の一つの根源として主に年長者の間には強く残っているように思われる。
ただ考えるべきは「自己犠牲の精神は尊いもの」と考える観念、美意識は日本人特有のものではないということだ。例えば「忠・義」といえば君臣間のものととらえられがちだが、中国大衆文学の世界でも義侠心というものは肯定的に評価されるものとして描かれているわけだし、イギリスなどにおいてもノブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)の概念から多くの貴族の若者が第一次世界大戦で先頭に立って戦い、戦後のイギリスの停滞を招いたと言われる事態が起こったりしている。もちろんタイタニック号の例などもその自己犠牲の美しさが人々の心に感銘を与えているわけだし、これは決して日本人だけのものではない。
いわゆる精神主義が嫌われるのはそこに合理的な戦術や物質的な基礎が伴わないからであり、最終的に精神的な強さがなければことをなし得ないということはあまり軽視されるべきではない。日本では窮乏してくると精神論が台頭するというこれはある意味悪しき伝統があり、戦争中もそうだし、まだ豊かでない時代の運動系の部活動もそうだったし、現在の経済敗戦的状況の中でのネオリベのしばき主義などもそうした日本の悪しき伝統の現れだと考えられる、少なくともそれが受け入れられてしまうという部分で、そういう伝統だと考えられる面が強い。
こうした内面化した美意識や精神主義の部分は捨てればいいというものではなく、大事にしていくべきところでもあるので、その辺りどう考えるかを整理しておいたほうがいいように思う。
それが日本の保守意識や保守主義をより健全なものとして再興するためには必要なものだと思うからである。
一つ考えたいと思っているのは、茶の湯で言う「一座建立」の考え方だ。茶の湯の席に集まる主人と客の本質的な対等性が成り立つような、お互いに相手を認め合う関係が成り立ってこその和み、と言えばいいのだろうか。そこには、人としての格のようなものが現れ、格の落ちるものがそこにいれば場を乱す。それにより人としての成長が促されるし、どのような場、どのような席を作るかに主人の美意識、世界観が現れ、招きあうことでより豊穣な関係が生まれる、というような場のイメージがある。
そこでは利休が秀吉の趣向を露骨に排除したようなある種の「狂」さえ現れる可能性がある。利休は町人であるからその気位は「貴族的なもの」というのは難しく、孔子と話し合うことを拒否した狂接与以来の東洋的(この言葉も定義が難しいのであまり使うべきではないのだがとりあえず)な知識人・数寄者・風流者の伝統みたいな部分があり、「血の原理」を結局は拒絶するところが東洋に、あるいは移植されたからかどうかは検討しなければいけないが日本にあるという点があるような気がする。
この辺は一つの検討課題としたいと思っている。
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