福澤諭吉「西洋事情」を読む:「日本にとって今必要なことは何か」を常に考えて行動する

Posted at 21/03/05

福澤諭吉の「西洋事情」を拾い読みしている。岩波の選集に収録された抄録なので全部ではないのだが、見るもの聞くもの新しいものをいかにして吸収するか、というテーマに何でもかんでもトライして、さまざまな知識を貪欲に吸収し、それを惜しげもなく披露するという形で公開している感があり、面白い。もちろん見学し訪ね歩いて吸収した知識だけでなく、本を読んで吸収したものも多いだろうし、つまりはこの中の記述にも種本になるものがある部分も結構あるのだろうと思うが、この辺の研究はどれくらい進んでいるのかなと思った。福澤の旧蔵書などが慶應にあるならばその辺りを徹底して調べて福澤がどこから、あるいは何の本からその知識を得たのかというようなことがわかると面白いだろうなと思う。

初編の1が西欧諸国の社会の仕組みの概説。19世紀半ばのヨーロッパがどのような状況だったのかが異邦人の目から見てどう映ったかがわかって面白いということもあるし、何に関心を持って吸収しようとしたのかということもわかって面白い。初編の2はアメリカについて書かれていて、独立宣言の恐らくは初めての日本語訳が掲載され、全体に福澤がヨーロッパ諸国の中でもアメリカに強い関心を持っていたことが察せられる。もちろんそれは、福澤自身が最初に訪れた西欧諸国がアメリカであったということもあることはあると思うが、建国以来共和政という国はヨーロッパにはないので、その国政に強い関心を持っていたことが察せられる。最初に来たペリーの国ということもあるだろう。

初編の3が割愛されているので内容はわからないが、少し調べたところイギリスについて書かれていると思われる。福澤が蘭語・英語が専門ということもあるが、やはり大英帝国については関心は強かったものと思われる。もちろん当時一番日本駐在の公使の中でも存在感の大きいパークスらの国だということもあるだろう。

2編は全くないのでわからない。外編はとある経済書の翻訳なのだが、これがチェンバースという出版社から出ていることは知られていたが著者が長い間わからなかったようなのだが、近年になってジョン・ヒル・バートンという人物だとわかったらしい。内容的には専門書というより啓蒙書であったらしく、そういうこともあってその後もあまり注目されてこなかったようだ。

外編について印象的だったのは、初編1ではその翻訳に迷っていた「Liberty」の訳語が、外編では「自由」で定着した感があること。初編では「自主任意」となっていた。自由という訳語も取り上げた上で「未だ的当の訳字あらず」としている。

初編一の方で関心を持ったのは兵制の部分で、オランダ大統領マウリットの「兵制改革」が取り上げられていたのだが、これはオランダ独立戦争時代の総督・オラニエ公マウリッツ(1567-1625)のことのようだ。軍隊に徹底的な訓練とそのマニュアルを与え、「軍事革命」と言われたと。

マウリッツは銃を扱う動作も数十に分け、号令で一斉に行えるようにし、行軍の規則を決めて陣形を迅速に変えることが出来るようにしたと。これは川中島の戦いとかではやってると思うが、ほぼ同時代に洋の東西で行われたということだろうか。彼はこの訓練法を公開し出版していて、各国が模倣したらしい。

どうやら軍事におけるマウリッツの貢献はかなり大きい。彼は歩兵砲兵騎兵の三兵戦術の基礎を作り、士官学校も創設し、その卒業生はグスタフ・アドルフの幕下で活躍し、30年戦争での活躍につながったようだ。オランダが大国スペインと戦えたのはそうした軍事技術の発達があったということはちゃんと認識しておかないといけないといけないと思った。

戦後民主主義世界に生きてきた私たちにとって兵制の問題などはなかなか取り上げられにくい問題だが、福澤にとっては当然喫緊の課題の一つと考えられていただろう。そしてこの三兵戦術、考えてみたらすでに高野長英が『三兵答古知幾(タクチーキ)』として訳していたことを思い出した。安政時代に再版になっている。福澤は「日本にとって今必要なことは何か」ということを常に考えて行動していたように思われる。

もう一つ興味深かったのは蒸気機関について。福澤は蒸気機関の発明について「ドイツのレオポルドが1720年に提案」と書いていて誰のことだか分らなかったが、ググったら「1725年 Jakob Leupold (1674-1727)、復水器なしの2気筒高圧機関を提案」と言うのがありどうもこれのようだ。ニューコメン機関が評価されてないのは何か事情があったのだろうか

しかしニュートンが1643-1727に生きた人で、ニューコメンは1664-1729の人だからほぼ同時代なのだよな。て言うか二人ともほぼルイ14世時代の人だなと思った。ニュートンはもっと古いと思っていたが、そうでもない。ちょっと時代を勘違いしていた。

ニューコメン機関が実用化された1712年て300年以上前なわけだが、日本では正徳二年、つまりまだ六代将軍家宣、新井白石の時代になる。ワット機関が実用化された1776年は安永5年だから田沼時代。平賀源内が見たら面白がっただろうか。18世紀に科学技術を十分に発達させられなかった日本の不利を改めて思う。

いろいろ調べながら、福澤諭吉という人はものすごくラジカルな面とかなり保守的な面とを持っていると思った。「門閥制度は親の仇でござる」とか「祠の御神体の石を勝手に放り投げて別の石を入れておいたらおばあさんが有り難そうに拝んでいるのをみて馬鹿だと思った」みたいなことを平気で言っていて、この辺はちょっとえげつないなとさえ思う。要は「能力主義が全く反映されない身分制社会」や「庶民を「騙す」宗教」のようなものを徹底的に排斥する姿勢を持っている一方で、尊王攘夷運動の過激さ、また自由民権運動の過激さも強く否定しているところがある。この辺りは徹底した合理主義だということなんだろう。「情念の行動」のようなものに対する評価がとても低い。

この辺りは「抽象的理念で国を作ろうとすることに反対する」保守主義の姿勢と関わるところもあると思うが、そもそも自由民権の闘士たちが「自由」という概念をどのくらいわかっていたかはよくわからない感じもするので、その辺りは要検討としたい。

幕府を辞めたのちは新政府にも出仕せず、慶應義塾を本拠として活動するが、東大が組織され小学校等公教育も始まるとかなり経営難に陥ったらしく、勝海舟から金を借りようとして断られたりしていてこの二人の関係は一体、みたいな感じがする。BLにでもなるのではないだろうか。

自由民権運動の時期になるとスタンスとしては相対的に保守的な方向に傾き、大久保と会ったり岩倉に援助されたりいろいろ政府関係者ともそれなりの関係を持っていく。特に大隈重信と近かったようで、東京専門学校(今の早稲田大学)の開設の式典には福澤も出席している。私学を興さないといけない、という考えがあったようだ。

「文明論之概略」や有名な「脱亜論」など文明のいくべき方向性、日本の進むべき方向性について考えるなど、大所高所からの見解が多く、憲法に関してもイギリス的な立憲君主制を理想として大隈と近かったところから、ドイツ型の憲法の採用に関しては異論を持っていただろうと思う。その辺りも言論を読んでみなければわからないが、「国のかたち」を決めていく中でどういうことがあり得たかは検討されても良い感じはした。

福澤諭吉は生きた時代もそうだが色々な面を持っていた人だと思うが、やはり根本にあるのは「合理主義」だったのだと思う。実学を勧めているのもそういうことだろうと思う。思想史の中での位置付けについてはとても重要な人だと改めて思った。この周辺についても読んだり考えたりしてみたいと思う。

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