「明治思想史研究」の近年の状況を読みながら、「学問」と「反日」と私自身のここ40年くらいを振り返るなど
Posted at 21/03/07 PermaLink» Tweet
「明治史研究の最前線」第3章「思想史研究ー政治思想と人物」とそれに付随する三つのコラム、保守・天皇・知識人をテーマにしたものを読んだ。
長くなったので、今回はこの章の14の節のうち、8番目の「通史概説の現在」のところまでを読んだ感想として書いておきたい。
内容的に言えば自分の関心は「日本の保守主義の起源」なのでこの辺りが一番重要ということになるのだが、読んだ感じではかなり思想史自体が混迷した状況にあるような印象を受けた。それは、思想史が「人間精神がいかにして暗黒の時代から光明の自由な時代になってきたか」、というような割と単純な構造を持っていたからではないか、というふうに読まざるを得ない部分があった。
日本史研究者にとっては明治の思想史が政治学や思想史学と同じ研究対象としてきたことは神経質な問題かもしれないが、一般の読者からすれば同じ明治史創始であり、そうした広範な視点を持って概説してくれれば十分だと思うのだけど、かなりその辺りの事情が色々と書かれていたのはあまり最前線的ではないなあと思った。
大まかに言って「政治思想」そのものに焦点を当てる政治学や思想史学と違い、歴史学から見た思想史はその思想家を明らかにすることによってその時代の社会状況や社会のあり方を明らかにすることにある、という指摘があり、それはその社会の中にあってその思想が生まれ、その思想がどのように社会に影響を与えたのか、というダイナミズムを明らかにすることだ、と考えればいいのだろうか。
思想家の中には全く反時代的な人もいないとは言えないが、多くはその時代の中でその社会の空気を吸って育ち、様々な学習や思索や行動をして思想を育てていくわけだから、思想家もまたその時代の登場人物であることは確かだ。だから彼の書いたものやその内容の検討とともにその時代に彼がとった行動や与えた影響、また時代が彼に与えた影響を明らかにしていくことは歴史理解の上でも重要なことだろう。
私自身の関心事としては保守思想というものの可能性を見ていきたいので必ずしも歴史学的なアプローチを必要とするわけではないのだけど、私自身が歴史学を専攻していたということもあり、時代の中の位置付けという点は押さえておきたいという感覚がある。従って、政治学的なアプローチだけでなく、歴史学的なアプローチも自分にとっては大事であるとは思う。
ただ残念ながら、現在でも盛んな政治学プロパーでの思想史研究に対して、歴史学の分野では必ずしもそうではないということが示唆されていて、それはつまり歴史学分野において思想史を研究することの意味のようなものが疑問符がついた、ないしはその意味自体が問われることになってしまったから、ということが述べられているのかなと思う。
私はこの本を読んでいる動機自体が保守思想の研究なのであまり関係はないのだが、まず第一に「近代化」の意味そのものが輝かしいものではなくなったという変化があると。丸山眞男や家永三郎の頃は彼ら自身の主張は違っても近代化そのものはプラスの意義のあることであるということは疑われていなかったということのようだ。
しかし時代が下るに従って「近代」自体がプラスだけではないという認識が広がり、近代化思想=啓蒙思想を研究する意義が「文学部」の歴史学的に下がった、ということがあるようだ。最初から近代社会・近代国家そのものが研究対象の政治学においては近代批判があろうと近代化思想研究の重要性は変わらないわけだが、「価値」を求める面がある「文学部の研究」として、近代の価値が下がったということはあったのだろうと思う。
これは実際よくわかることで、私の学生時代だった80年代前半は歴史学では中世史研究が花形だった。日本史の網野善彦・石井進、西洋史の阿部謹也・樺山紘一と言った先生方がスターで、その対談を収めた「中世の風景」(中公新書、1981)はバイブルのようにしていた。東洋史でもインド大反乱研究の長崎暢子、イスラム関係の先生方など、「近代西欧以外の世界の豊穣さ」「近代の意味を問い直す」みたいなことが学部生だった私などにも与えた影響は大きかったなと思う。
そしてもう一つは、「国家への嫌悪=自由への憧憬」という構図、人はいかにして封建的な桎梏から逃れて自由になっていったか、みたいなものが思想史だという認識が、「想像の共同体」に始まるナショナリズム論により、「自由民権運動」も「明治国家」も結局は「国民国家形成」のために動いていたに「過ぎない」という認識が広がり、「自由民権運動自体に対する幻滅」が広がったのだという。まあこれは自分が学んでいた頃の西洋史では高校段階ですでに「国民国家」の重要性が強調されていたので何を今更という感じに思ってしまうが、自由民権にロマン主義的なものを求めていた人たちにとっては打撃だったのだろうなとは思う。いつの時代の話なんだという気もするし、歴史ロマンを求めて歴史学科に入ったものの「なんか違う」と思ってしまう若者と本質的には変わらないなという気もするのだが、それは世代的な部分も大きいのだろうなとは思う。(ただ、この著者は私より若いので、この部分の説明の真意は違うのかもしれないのだが、私にはそう読めた)
そして三つ目は、「学問」自体の根拠を問うポストモダン的な「言語論的転回」により「学問の客観性」自体が問われることになったという。確かに、80年代前半の私の学生時代には、「全てを疑う」相対主義が猛威を振るった時代だったから、こういう感じは理解はできる。
私の「親の世代」がちょうど「終戦時に教科書を墨塗りした世代」であり、昭和10年前後に生まれたこの世代は一夜にして「大人の価値観」が真逆になった世代なので、「信じられるものは何もない」となった世代であり、その中で本当に信じられるものを求めて「科学」や「文化」、あるいは「平和主義」「共産主義」等に傾斜していった世代でもある。
そしてその次世代である私たちの世代は「新人類」と称され、既存の価値観に対して斜に構えるのがデフォルトの世代になった。10年ほど年長の「団塊の世代=全共闘世代」のアナーキーな価値観に対しても相対主義的に構えるのがデフォルトであったように思う。であるから、私などの世代にとってはこうした相対主義的な、「学問の存在価値そのものを疑う」ような議論については非常に受け入れられやすい土壌はあったと思う。
「信じたいために疑い続ける」(岡林信康「自由への長い旅」)のが全共闘世代であったとしたら、我々の世代は「すでに信じられるものはなく、作っては壊す終わりなき日常があるだけ」みたいな感覚、逆に言えば毎日が祝祭のような、「おいしい生活」こそが人生の全てだ、みたいな感覚だったように思う。
ただ、ここで書かれている「言語論的転回」による批判の内容自体がちょっとよくわからない。鹿野政直氏の歴史学批判についても、これは当時の思想潮流から必然的に出てきた批判というよりもマルクス主義的な視点による学問自体のブルジョア性批判から派生した「近代」「国家」「本土」「男性」などの特権性とのある意味での癒着を批判しているだけに見え、特に80年代的な新しさを感じるわけではない。
ただ、考えてみるとこの時期から従軍慰安婦や南京事件、靖国問題などの政治問題化が始まっているので、これは言語論云々ではなく、まさに「政治闘争としての反日主義」が始まった画期であると考えるべきかもしれない。
左翼やリベラルというのが本来「搾取されている労働者」が「選択の自由」を保つために「大きな政府の元での所得の再分配」により自由を確保する、というものであったはずなのに、現在の「リベラル左翼」が「ネオリベラリスト」と全く同じ「小さな政府・緊縮財政」の支持者になっているのは、「一億総中流」の実現とともに「政治闘争目標」を失った左翼が「貧困」ではなく「マイノリティの権利」に舵を切ったことが大きかったと思われる。これは外山恒一「良いテロリストのための教科書」によれば1970年の「華僑青年闘争委員会による告発」、「華青闘告発」と呼ばれる新左翼各セクトが大きく「反差別」に舵を切った(この場に居合わせなかった民青・革マルを除く)事件があったということも大きいのだろうと思う。
ただ、ここで書かれている批判はともかく、「歴史学」が自明のものとしてきた「概説」や「通史」が批判の目に晒された、ということ自体は事実だと思う。しかしこれは日本だけのことではなく、フランスにおけるフランス革命研究などにおいても、例えば「フランス革命事典」では「聖職者民事基本法」や「バンダリズム」といった分析概念ごとに解説がつけられていて、研究者にとっては使いやすい面はあるが通史理解的には難しい感じがあったが、「近代日本政治思想史」などの本もそのような方向性で編まれているようだ。
フランス革命について、フランソワ・フュレの編んだこの事典は問題提起的で非常に興味深かったが、通史的には結局ジョルジュ・ルフェーブル「1789年」や福井憲彦編「フランス史」で全体像を掴む、みたいな感じになったのと似た感じがあり、結局のところは概説や通史の必要性は何ら変わってないように思う。ただ、より厳密に一次史料に基づいた研究を重視することが求められるのと、筆者自身がどういうスタンスで描いているかをより明確にした上での執筆であることが求められるとは思うけれども。
書き出したらかなり論点が多く、ここまででもかなりの量になったので、今回はここまでにしたい。
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