保守主義とは、生きる態度に根ざした思想。

Posted at 21/02/16

「保守主義とは何か」読んでる。
昨日は第2章、20世紀前半の人たちのところを読んだが、T・S・エリオット、チェスタトン、ハイエク、オークショットの四人が取り上げられていた。

その辺、読んで私が大事だと思ったところをまとめながら考えたいと思う。

エリオットの主張で大事だと思ったのは伝統ということ。芸術活動の上で個性とはそれ自体で意味を持つものではなく、過去の伝統を媒介にして新たなものを作り出すこと、つまり伝統自体の自己革新である、ということが一つ。そしてその伝統は社会集団によって担われる、ということがもう一つ。

この社会集団は地域的な集団と階級的な集団が取り上げられていて、たとえばオーウェルなどはエリオットの主張を貴族階級を擁護するものと攻撃したのだと。この辺り、階級というものを克服すべきものと捉えるか現に存在するものとして尊重するかの違いということはあるのだけど、文化を担う集団という点ではそれはそれとして重要だというエリオットの考えの方に私は同感するところはある。

伝統というものはつまりは文化が継承されること、継承される中で自己変容していくこと変わるものと変わらないもの、というテーマがある。これは例えば歌舞伎の芸の継承などでも論点がいくつも出てくるところなのだけど、伝統や文化はそのバリエーションの豊富さに意味があると同時に、例えばイギリス文化、例えばヨーロッパ文化のという形でより大きなものとのつながりも意識される。

それがお互いに理解し認め合うことができるのは、お互いが Common Senceを共有していることが大きいと。(「コモンセンス」はアメリカ独立の時のトマス・ペインの著書名でもあるが、余談ながらペインはあまり常識的でない人生を送っている)、人々の常識=共通感覚は文芸などに対する思考法と政治に対する姿勢を分けるのではなく、共通した態度で見ていくということ、でいいのかな。日本でも文芸評論家に政治的思想を語る人が多いのもこの辺りに依拠しているように思う。まあ元々東アジアでは文人は官僚・政治家予備軍でもあり、人的にも共通だったわけだけど。

チェスタトンに関しては、「正気」という言葉が一番印象的だ。人間の精神活動において「理性」は重要だが、「理性」のみで物事を片付けようとすると、理性では片付けられないものに必ず突き当たり、それも理性で解決しようとして「狂気」に陥ると。理性だけでなんとかしようとすることそのものが狂気なのだ、という主張はよくわかる。

これは他の保守主義の考え方とも通じる、「理性のみ、合理性のみで政治を行おう、システムを変えてしまおうとすることの危うさ」を指摘しているわけで、チェスタトンが伝統を重視したのはそれがいわば「死者の民主主義」だからであり、過去との対話が重要で、また理性万能主義の狂気に歯止めをかけるために信仰の立場に立って理性を抑制し、「自らを限定する=理性の限界を知る」ことが「正統」であると考えたのだとしている。

この辺りをまとめると、つまりは人間らしい生き方をするためには文化とその伝統が大事であり、広くコモンセンスが共有されてその中で文化の多様性が生き生きとしていることが重要なのであり、急進主義や社会主義などの形で理性万能の方向に思考が進むと狂気に陥るので、理性の暴走を止めるために自己を限定する信仰の存在が重要になる、ということになるだろうか。

理性、ないし合理的な推論やあるいは合理主義的な社会制度などは「理性」によっていくらでも考えられ、その視点から見ると現実は「破壊して然るべき」ものになってしまうが、それは行き過ぎると「狂気」になってしまう。その「それ以上いけない」という地点に人を引き止めるのが超越者である神への信仰である、と言い換えてみた。

ここにおいて保守主義の一つの特徴だと考えられる「中庸」の思想が出てくるわけだけど、しかし考えてみると西洋哲学ではアリストテレス以来この「中庸」というのはあまり問題にされてない気がする。これはその思想が自由を制限するものと思われているということなのだろうか。日本はまあ、中庸の徳が行きすぎてる場合が多いような気はしなくはないが。

ハイエクに関しては「新自由主義に道を開いた人」みたいな言われ方があるが、本質は「隷属への道」の著者として、ナチズムと社会主義を同じ全体主義、集産主義と捉え、またその延長上と思われるアトリー政権の福祉国家思想に反対した、というところにポイントがあるのだろう。

ハイエクが反対したのは国家が市場や人々の生活に介入し、「計画的に」社会を統制しようとしたことそのもので、それは「進歩は自生的なものであり、決して計画できない」というというところにある。ただそれは教条的にレッセフェールを押し付けるものではないのだという。

ハイエクが重視したのは「ヨーロッパの個人主義の伝統」であり、特定の政府や個人が「すべての情報を把握する」ことが不可能である以上、政府が計画的に福祉を行おうとすることは傲慢である、ということになる。一般的なルールの適用はいいが、個別的ルールの適用で人々をコントロールすることは「法の支配」の伝統にも反する、ということになるということのようだ。

ただここでも触れられている通り、サン・シモン以来のフランスの社会主義者が主張した、「富の平等な分配」こそが最終的には個人の自由に資するという「新しい自由」の概念が、リベラリズムの変質をもたらした、ということがある。

私は基本的には再分配に関しては賛成、というかそれなしでは社会の安定はもたらされないと思っているけれども、ここで重要になってくるのは「分配権力の存在」であることは確かだ。「誰に何をどれくらい配るかを決める権力」が、現代社会では大きな力を持っている。特にソ連などの社会主義国では権力の源泉だったし、また今の日本でも内政における政治的課題のかなり大きな部分がそこに集中している。現在のようなコロナ状況下、コロナ不況下にあってはますますその重要性は高まるばかりだ。

この「権力と自由」、「富と窮乏の偏在の不公正ないし不正義の是正」に関しハイエクがどう考えていたかはこの本だけではよくわからないので、また調べてみないととは思った。

最後にオークショットだが、書かれている内容で最も「感覚的に」共感を覚えたのが彼の考えだった。

オークショットが批判するのは合理主義者であり、特に政治的な合理主義者を批判するが、それは「合理主義者は常に問題解決を目指す」からだという。問題解決をしない方がいい場合もあるとは考えないで、常に画一的な完全な答えが存在することを当然とし、その実現こそが政治だと考えるのだと。

これは確かに当たり前と言えば当たり前のことなのだが、まさにコロンブスの卵であって、世の中には「手をつけない方がいい問題」というのも存在することは確かだ。それは消極性の表れなのではなくて、そこにある自発的な変化の芽を摘んでしまう可能性もあるからだ、と考えるべきだろう。

これは例えば、医療においては「治療のしすぎ」の問題と似ている。過剰診療、過剰検査というのは日本の保険医療システムの一つの宿痾ではあるが、個人の健康にとっては基本的には外部刺激が必要でない時に何かをされることはよくないことなわけで、オークショットの冷静な指摘は非常にわかりやすい。

個人の間の友情が「相手を変えよう」とするものではなく、行われる会話が「何かを解決しよう」とするものではないように、多くの言葉が行き交い、互いを認め合い、そして同化はしない、つまり一つの声が他を圧倒してしまうことは友情でも会話でもない。政治もまずはそういうものであるところに立ち返るべきだ、というのが彼の主張ということになるだろう。

この主張はとてもリリカルで、こうであったらいいなあと思うし、例えば戦後すぐの激しい政治抗争の時代の中での論敵同士が相手を認め合う瞬間を描いた「小説吉田学校」などの「古き良き政治家たち」のやりとりが思い出される。明らかに現代は政治や会話から過剰にこういう部分が失われていて、答えを欲しがる人ばかりになっている。たとえそういう主張をしても「そんな悠長なことをしている暇はない!」と目を三角にした人たちに怒鳴り飛ばされるのがオチだろう。


 

宇野さんのいうところによれば、西部邁はオークショットのこういう考え方に、「生の葛藤を平衡させることそれ自体に楽しみを覚える」生き方であると解釈していて、つまりは「ペーソス混じりのユーモア」を持って問題に対処していく態度であるという。ここは西部邁「思想の英雄たち」に書かれているようで、この本は私も一度読んでいるので、もう一度確認しておきたいと思った。


 

チェスタトンやエリオットもそうだが、つまりは保守主義というのは「余裕を持った態度」に支えられているのだなと思う。それは多様性を受け入れる「寛容」の態度でもあり、「危機に及んでも動ぜず普段の態度を貫ける」態度でもあり、「理性や信仰、さまざまな極端を「それ以上いけない」と制止する」態度でもあるのだなと思う。そしてそれを支えるのが伝統や生活様式や習慣、理性をも人間存在のさまざまな能力や現象の一部として決して突出することを許さない態度、みたいなものだと考えれば良いのかなと思う。

このように考えれば保守というのは、単なる政治的な主張ではなく、その人間の生き方、生きる姿勢、生きる態度のようなものの全体と考えるべきであるように思われた。保守主義とは、生きる態度に根ざした思想だということになる。


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