歴史と経済と倫理

Posted at 21/02/10

経緯は詳しくは書かないが、ナチスを「評価する」「肯定する」ということについての議論がTwitterで行われていて、それに関していくつかの意見が出ている。

一つは、「ナチスに肯定できる政策はない」という主張。ナチスがやったユダヤ人迫害等の事実は倫理的に見て普通にアウトだが、ナチスドイツが1930年代に少なくとも外見的に見れば非常な経済的発展を遂げ、強国として復活したように見えることの「経済政策の手腕」をどう見るか、ということだと思う。

実際に経済政策を進めたのはヒトラーではなくヤルマール・シャハトであるという指摘もあり、その辺りも含めてもう一度ちゃんとさらっておかないと議論はできないなと思ってタイムライン上でも推薦のあった石田勇治「ヒトラーとナチ・ドイツ」(講談社現代新書、2015)を注文したのでその評価自体はもう一度あとでしようと思うけれども、その評価自体が客観的というよりは倫理的な善悪に還元されてしまっているように感じることにやや違和感を覚えた。

もう一つの主張は、「ドイツ近現代史はナチスの非倫理性を考究するための学問ではない」という主張。これはその通りだと思う。歴史記述がそれに傾き過ぎているのはやはり問題で、それは「日本近現代史が当時の政府や軍部の非倫理性を考究するための学問ではない」のと同じだ。客観的記述と倫理的主張がごちゃ混ぜになっている文章はとても読みにくい。

ただ、他にもリプライなどをみていると、そういうことを踏まえた上でもナチスに対してプラスの評価をしようとする考えの人もいるし、ナチスは経済政策的にもなってなくて評価以前、と全く切り捨てる人もいて、一般の認識としても評価が分かれているのだなと思う。

評価が分かれている一つの原因は、それぞれの人がそれぞれの年代、世代ごとにどのような内容の教育を受けてきているのかがかなりばらつきがあるのではないかということ。ナチス礼賛本みたいなもの、「ホロコーストはなかった」的な本を支持している方はタイムラインを見ている限りではいない印象ではあったが、ナチスの政策はケインズ主義的な意味での有効需要の創出に成功していたという見解の人は多いように思った。恐らくは最新の歴史研究ではその辺りが見直されているのだと思うが、それが「歴史学」の範疇を超えて「経済学」の方にもその新しい見解が導入されているかというとそれはよくわからない。

ナチス研究は趣味的なものを除けば歴史学研究でもそんなに人気のある分野ではないようで、新しい研究者はそう多くは内容で、以前亡くなった池内紀先生が新書の内容で叩かれていたけれども、「知識がアップデートされていない」人がほとんどだし、というか学校を出たあと新たにナチスの本を読んでいる人など普通はいないわけで、認識が別れるのは当然だと思う。知性主義の立場から言えばみな勉強すべきだということになるだろうが、その思想は社会の実相からは遊離しているだろう。

私自身としては、歴史は思想的主張・倫理的主張とはなるべく切り離して客観的に叙述した方がいいと思うが、もちろん何を取り上げるか自体が主張と切り離せない部分はあるので完全には難しいのは当然である。ただ、それぞれの事項についてより客観的に取り上げた方が、異なる立場の読者に対してもより説得力があると思う。

巷間「ナチスはいいこともした」と思われてるのはほとんどは経済政策に関してだから、その辺りの一般の認識を変えたいんだったら経済政策に絞って特に同時代の五カ年計画やニューディール、英仏日などの経済政策とその成果について比較した新書レベルの啓蒙書を出せばいいんじゃないかという気がする。

ただ、倫理的に正しいことと間違っていることがあるのはもちろんだと思う。「大虐殺を肯定」することは間違っている。そこを肯定されると議論の底が抜けてしまう。ただ、「そういう人がいるからそういうことが起こる」ことも事実ではある。それは「なぜ人を殺してはいけないか」「なぜ戦争はない方がいいのか」という話と同じことで、究極的には「それを肯定すると人間社会が成り立たないから」ということだと思うが、この議論をすることがここでの本旨ではないのでこのくらいにしておきたい。言いたいことは、「倫理的に正しいことと間違っていることがあるという考え」に私は賛成であり、「大虐殺は非難されるべきことである」と私は主張したいということである。

日本の右翼・保守派は中国政府のウィグル・チベット・モンゴルに対する弾圧政策を非難するけれども、中国政府の行っているジェノサイド政策、ないし「ジェノサイド的な」政策を非難するならば、やはりナチスによるユダヤ人虐殺も非難しないと理屈が成り立たないだろう。

ただ、いずれも実態を詳細に検討した上でないと、無意味な冤罪であると考えられる場合もあり得るし、また糾弾側の事情というのもある、たとえば先にあげたシャハトはニュルンベルク裁判で無罪になっていて、これはソ連とアメリカの判事が有罪にしようとしたがイギリスとフランスの判事が無罪にしたかららしく、その評価がなぜ分かれたかなども背景を探る必要はある。

深淵を覗くものは深淵からも覗かれている、という言葉があるが、倫理的に糾弾する者がいたらなぜこの人はこのように糾弾するのだろうかということも考究する必要はあるだろうということだ。

そして経済政策にも倫理的に正しいものとそうでないものがあるというのは私も強く思っていて、やはり社会的に対立を拡大させるものは正しくなく、より社会としてのまとまりを増強する政策がより正しいと思う。

現在のネオリベ的経済政策は、基本的に「頑張ったもの、優れているもの、能力が高いものは多くを獲得して当然である」という考えに基づいているが、それに対抗する考えは「全ての人が能力や努力の如何にかかわらずきちんと生活でき、極端な格差は存在しない方がいい」という考え方がある。「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というのが一般に共産主義だとされているが、そこまで行くと分配者の権力が強くなりすぎるので良くないが、それなりには分配機能は働くべきだと思うし、そのためにはケインズ主義的な政策はもっと実行されなければならないと思う。

倫理を忌避すると逆に全くの自由放任がいいという極端に行ってしまい、現代はその傾向が強いけれども、それはそれでおかしいと思う。経済とはもともと「経世済民」からきている言葉だというのを思い起こす必要があると思う。


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