デモとボランティア:「なぜ日本の若者は社会運動から距離を置くのか?」と言う問いについて考えてみた。(1)

Posted at 21/02/04

社会学者について喧しい意見が飛び交う中、その動きに全く我関せずの姿勢をツイッター上でも貫いておられた社会学者がいて、ちょっと注目していた。社会運動を研究されている富永京子さんだ。

富永さんは社会学会の中でのいわばパワハラを受けた経験があり、ツイッター登録者でもあるその方に対して発言もされていた。またパワハラについての記事は下にあるが、個人名はあげていないのでそれについてはこの稿でも書くのは控えたいと思う。

https://kyokotominaga.com/interface1/

富永さんはこうした「世間」による「社会学者に対する攻撃」についてどう考えているのだろうと思ったのだが、こうした経験もあり、発言に対しても慎重なのだろうとも思うし、また他の社会学者の方々とは感じ方は違うだろうなとは思う。また状況が変われば発言されることもあるだろうと思うので、今はその件については触れない。

今日検討したいのは富永さんの別の最近の論考、「なぜ日本の若者は社会運動から距離を置くのか?」についてだ。

https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00668/

こう言う問いを投げ掛けられると、とりあえず普通に「なぜ距離を置かないと思った?」みたいに思ってしまうのだが、ちょっと考えてみよう。これは、「社会学者はなぜ攻撃されるのか」、という今現在の話題についても、かなり関係のあることだと思うからだ。

最近の若者はデモに行かないという。それはそうだろうと思う。なぜかないのか?と言う問いはある意味「なぜ日本にピラミッドがないのか?」と言う問いと同じで、証明できないいわゆる「悪魔の証明」になってしまうが、逆に言えば「なぜ行かないのか?」と言う問いを立てる人がいる、と言うこと自体が考察の対象になるわけである。

今の日本社会において、デモに行く人はごく少数だと思うし、デモに行くことを当然のように前提にされても意味がわからない、ということになるのが普通だと思う。

もちろん富永さんは社会運動の研究者なのでデモや集会などの社会運動を多くの国では若者がになっていて、最近でもBLMや反グローバリズム、地球環境問題の訴えなどで多くの若者が運動に参加していると言うことを踏まえているだろうし、また日本においても1970年代初頭までは多くの若者がデモや学生集会などに参加していたことが思い出される。またその後も、反原発運動など社会運動が起こる機会もあったし、年配者を中心に多くの参加者が得られる場合もあるので、それなのに現代の若者はなぜ、と言う問いになるのだろうと思う。

自分自身のことを考えてみると、私はデモや集会などには基本的にあまり参加しない方だった。趣旨に賛同できれば参加するのはやぶさかではないと言う気持ちもあったが、あまりそう言う気持ちになることもなかったからだ。ただ、何回かデモに参加したことはあるし、集会に参加したことも数回はある。その経験についてこのエントリの第一回として簡単に書いてみる。

初めてデモに参加したのは大学の教養課程の頃、80年代の前半だ。当時は「統一教会」=原理研の勧誘活動が駒場でも活発になっていて、学内ではそれを非難する自治会やブント系の反原理共闘を名乗る人たちとたびたび小競り合いを起こしていた。私もその場に居合わせたこともあるが、ある時起こった衝突はかなり大規模になったようで、恐らくは大学側の要請によって、機動隊が出動して多くの逮捕者を出したことがあった。

逮捕者の中には反原理共闘だけでなく自治会委員長(民青=共産党系)も含まれていたため、自治会役員選挙などをめぐってよく対立していた両者(つまりは旧左翼=共産党と新左翼系の集団)も一致して警察に抗議することになり、目黒署までデモをしたのだった。

私はセクト的にどちらを支持するとかは特になく、人間関係的には反原理の人と時々話をしたりしていたので、どちらに偏ると言うこともなければ一度は、と思って参加したのだった。目黒署の前でシュプレヒコールを上げると警察官たちが出てきてバシャバシャこちらの写真を撮っていて、公安の捜査なのか威嚇なのかはわからないが、まあなるほどと現場感があった。結局学生は数日を待たずして釈放され、その後もどうと言うことはなかったのだが、結果的にはこちらの行動によって事態が変わったようにも見え、それなりの成果が得られたようにも思った。

私自身はこうしたいわゆる左翼党派の活動にはだんだん面白くないものを感じていったので、その後はそうしたものに参加することはなかったが、自分の人脈的にはそう言う人も結構いたことは事実だ。

その次に参加したのは、1986年のソ連のチェルノブイリ原発事故をきっかけに世界中に反原発運動が起こったときで、私が当時やっていた演劇活動の中でこの事件に着想を得た戯曲を書いて上演したこともあり、反原発の空気に触れたいと言う気持ちもあって参加した。戯曲の内容は、当時は広瀬隆氏の「東京に原発を!」などが話題に上がっていたこともあり、東京湾岸にも、また日本全土には88箇所の原発が作られ、それが大地震をきっかけに大事故を起こして世界は人の住めない放射能の砂漠になるという、当時流行していた終末物を意識したような内容だった。

デモには若者を含めて多くの人が参加していて、「ダイ・イン」なども行われたようだが私は目撃はしなかった。確か日比谷公園から清水谷公園までのルートだったと思うが、かなりの行列になって、また沿道の人たちもそれなりに好意的にみていた感じがしたし、またでも自体にかなり活気があった。終点では社会党だったか労働組合だったかの人が拡声器で「何万人参加しました!何万人です!」みたいに熱っぽい口調で叫んでいて、確かにその当時としてはかなりの参加人数だったと思う。それだけ放射能に関しては切実な問題に感じている人が多かったと言うことだろう。

あれから35年経って、日本でも福島原発の事故が現実のものとなり、さまざまな社会情勢の変化もあって当時のような素朴な反原発感情でものをいうような状況ではなくなってしまったが、原子力発電所をめぐっては安全性をはじめとしてさまざまな検討・対処すべき問題があるということ自体を認識したというような意味はあったと思う。

日本はちょうどバブル前の、恐らくは日本は豊かであるという実感が最も強くなっていた時期、「一億総中流」という言葉が実感を持って、ある種当然のことのように語られていた時期であったから、「この社会、この生活を守りたい」という素朴な感情で社会運動に参加した人も多かったのではないかと思う。

書いているうちに結構自分語りになってきてしまったが、とりあえずは自分が社会運動というものにどう関わった経験があり、何をもとに語っているのか、ということを一応前提として書きたいと思って書いている。

ここまででは何を言いたいのかはよくわからないと思うが、長くなったのでこのエントリはここまでにし、続きを書いていきたいと思う。


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