デモとボランティア:守るべきものは抽象的な理念ではない(2)

Posted at 21/02/07

ネットというのはすぐに話題が変わってしまうので、その時には時宜を得たような文章であってもすぐ流行的には古くなってしまう。このエントリは社会運動、特にデモというものは必要なのか、ということについて書いているのだけど、最近の世界では少し前のOCCUPY=「ウォール街を占拠せよ!」という反グローバル主義の運動があったり、昨年ではBLM="Black lives matter"を主張する運動などが起こった。また、トランプ大統領自身が非常に大きな動員力を誇っており、多くの支持者を集めた大規模な集会を行なっていたことも記憶に新しい。 

また、環境問題を訴えるデモンストレーションもあるし、香港や中国では中国共産党支配の締め付けに反対する香港の民主派のデモが当局によって弾圧されたり、内モンゴルでモンゴル語教育の廃止をめぐってトラブルが起こったりもしていた。

中国に関しては、当局の弾圧的な動きに対して民衆も力で対抗せざるを得ないというところがあり、ある程度の理解も得られているように思う。アメリカでの運動に対してはむしろ「迷惑に過ぎないのではないか」「公共の秩序を破壊するだけに終わっているのではないか」という批判もあるように思う。

ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論
デヴィッド グレーバー
岩波書店
2020-12-24



ただ、OCCUPYに関してはそれを主導したグレイバーの「ブルシットジョブ」という著作があるように、「その仕事に意味はあるのか?」といういわば哲学的な問いが含まれる運動になっていて、あの運動自体が一つの作品のようにも思えた。逆に、現代美術がまたそういう方向に近づいていて、より政治性を増してきており、昨年のあいちトリエンナーレの問題につながっているようにも思われる。

 https://bijutsutecho.com/magazine/insight/20294

政治や現代アート、地球環境などの課題、格差の拡大に対する半ば道徳的な主張、フェミニズム、人種差別などさまざまな問題に対して、アメリカなどでは若者を中心に多くの人々が街頭に出ているわけだが、日本ではそうした動きは極めて鈍い。

また前にも述べたようにTwitter上では「社会学者」というものが盛んに叩かれているが、このこともこうした日本人の世界から見ると例外的にこうした運動が起こらない状況の象徴のようにも思われるわけだ。

これは「問題」なのだろうか、というのがこの稿の一つの目的な訳だけど、日本の若者やオルタナティブな立場にいる人たちも、この社会に問題を感じていないかといえばそうではないことはTwitterなどをみていればとてもよくわかる。

しかし実際のところ、若者たちは街頭に出ていこうとはしない。それは、恐らくは彼らのそうした想いの表現が「社会運動」という形ではないもので表されるようになってきたからだろうと思う。

それは何か。それは、たとえば東日本大震災の時に言われた「絆」というようなものかもしれないと思うが、そこを見る前に自分の体験についてまた書いてみたいと思う。

20世紀はどん底の「失われた10年」の中で終わり、ノストラダムスの予言は実現せず、21世紀は同時多発テロで始まった。

翌年、2002年には北朝鮮による拉致問題がクローズアップされ、北朝鮮による拉致が事実だと金正日が認めて謝罪し、拉致被害者数名の帰国が実現した。日本社会では北朝鮮に対する強い憤り一気に噴出し、各地で集会が開かれた。この20年の間、最も大規模な集会が開かれ、最も人数が動員されたのはこの件に関してではないかと思う。

私も拉致被害者を救う会・家族会が主催する集会に2度ほど参加した。最初は日比谷野音での救う会主催の大規模な集会で、ここはメーデーのデモの時も起点になったところで田英夫さんとかがアジっていたのだけど、この集会は全く雰囲気が違った。

まず参加者の層が違った。いかにも動員されてます、というような参加者はほとんどおらず、皆間違いなく北朝鮮に対して怒っていた。何かを考えてここにきたというより、自分の怒りを共有したいと心から思っている人たちが集まっていた感じだった。

そして、拉致被害者の家族の人たちが壇上に上がると、みんな真剣に訴えに耳を傾けた。「普通の人々」があんなに熱心に集会に参加しているのをみたのは、後にも先にも始めただったと思う。

人々の怒りは、何も知らない13歳の少女が北朝鮮国家によって拉致されたこと、若いカップルが何組も連れ去られ、その家族が嘆き悲しんでいたこと、それが思いがけず北朝鮮によるものと判明した時の半信半疑から、金正日の謝罪によってそれが現実と分かったやりきれなさ、のようなものが溢れていた。

私はその日の集会だけでなく、改めて屋内の会議室で行われた集会にも参加したことがあったが、その時には被害者家族の方々の話をより近い距離で直接聞くことができ、本当にこの人たちのために何かしてあげたいと思ったことを思い出す。

思ったのだが、日本ではこの具体的な「人」や「もの」への思い入れが、他の国に比べてかなり強いのではないかという気がする。そして、人々はその「人」や「もの」に対して強い紐帯、いわば「絆」を感じているのではないかと。

その思いは、具体的な「人」や「もの」を守りたい、という思いにつながる。

社会運動が守ろうとするものはなんだろう。それは結局抽象的な「理念」であり、「思想」ではないか。日本でもそういうものに対する熱に浮かされた時期があったけれども、そういうものはだんだん引いてきているように思う。元々の理念や思想といっても、抽象性のある思想自体ではなく、むしろ「マルクス」だとか「トロツキー」だとか「毛沢東」だとかのある種のアイコンに対するものへの関心だった部分が大きかったのではないか。いまだに「フーコーを読め」とTwitterで口走る人がいるように、その個人へのこだわりのようなものが結局は大きいのではないかと思う。

欧米のように、「思想」「理念」を守りたいのでなければ、人々は街頭に出る必要性がない。守るべきものはもともと「形」を持って「そこ」にある。守るべきもののある場所へ行って守ればいいのだから。

この文章の表題にも書いたけれども、若者の流れはデモには行っていない。だが、我々の学生時代に比べて、はるかに多くの人々が気軽に「ボランティア」に出かけているように思う。

最初にそれに気づいたのは阪神大震災だった。当時のパートナーが仕事を休んで神戸まで行き、ボランティアの仕事をもらって落ち着かない子供達の面倒を見ていた。私は休めなかったので行けなかったが、その気軽な感じに驚いたことがある。そして、参加したのは彼女だけでなく、彼女の友人たちのかなり多くの人たちが神戸に行った。これは新しい動きが起こっているのではないか、と私は感じていたように思う。

そうしたボランティア活動は災害のたびに多くの人が参加するようになり、ロシアの貨物船の座礁事故から重油が漏れ出した時もそれを回収するボランティアに出かけたり、最大のものでは東日本大震災の時に多くの人が東北に出かけた。

また福島で風評被害が起こっているというのを知ると野菜や桃を購入したり、もっと身近なところでは献血に参加したりと、若者は積極的に「具体的に誰かの役に立つ」行動を取るようになったように思う。

デモには参加しないが、ボランティアには参加する。このことをTwitterに書いた時、「若者は団塊の世代やバブル世代のように悪ぶることによって大人たちに反抗するのではなく、「いいことをする」ことによって大人に反抗しているのだ、という反応があって、なるほどそれはそうかもしれない、と思った。確かにそういう要素はあるようには思う。

ただ、それだけでは説明はつかないなと。今色々考えていて思ったのは、先に書いたように具体的な「人」「もの」に対する愛着、思い、守りたいという思い、のようなものに、日本の若者は、また若者だけでなく日本人全般が向かっているように思う。

この辺りは、かなり前になるが小林よしのりさんが書いていた「脱正義論」にも通じる話だと思う。小林さんは薬害エイズ裁判の弁護団の熱意と、被害者の子供たちの姿に心を動かされて運動に関わるようになり、結果的に厚生省を動かして菅直人厚相の謝罪を実現させた。しかし、そうした小林さんの「個人」に対する思いは裏切られ、その子供は運動家になり、ついには政治家になっていった。小林さんは「運動」に加担したのではなかったのに、結局は一人の運動家を生み出すことに手を貸したことになった。

新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論
小林 よしのり
幻冬舎
1996-08T



小林さんはその後方向を転換し、「戦争で戦ったお爺さんたち」のための作品を書く方向にシフトしていく。これも具体的な個人個人への思い入れというものが強い作品になっていった。そこでむしろ大東亜戦争の「大義」について語るようになっていったのはまた検討すべきことだとは思うが、ただ「個人への視点」が失われることはないようには思う。


 

若者たちの行動、また一般の人々の思いも、「正義」や「思想」や「理念」ではなく、具体的な「個人」「もの」への愛着や、それを守ろうという動きにつながっているように思う。

たとえば、社会学者やフェミニズムへの強い反発の原因になった出来事に「宇崎ちゃん献血ポスター問題」があった。

もともと、フェミニズムというのは性の解放という側面があったので、フェミニストやそれが多く含まれる社会学者は裸体表現やセクシャルな表現については寛容というかむしろ推進するスタンスがあったように思う。しかし日本では最近は「男性の性的搾取から女性を守る」という勢力が強くなり始め、セクシャルなものを感じさせる表現について、それを糾弾する方向性が強くなってきた。

その中で特に標的にされたのは「萌え絵」だった。幼い顔をした女性が肉体的に豊満でその描写も立体的な萌え絵は、「幼女性愛者」への糾弾と「女性への性的搾取」への糾弾が合体してより強いものとして現れることになったのだろう。


 

その中で標的にされたのが「宇崎ちゃんは遊びたい!」という作品の主人公、宇崎ちゃんが悪戯っぽい目で「センパイ」に語りかける、献血を呼びかけるポスターだった。彼(女)らはそれを糾弾するだけでなく赤十字社に圧力をかけてポスターの掲示をやめさせた。これに、多くの人々が怒った。

ここで宇崎ちゃんを守ろうとする人たちが使った論理は「表現の自由」であったため、フェミニスト側からは「表現の自由戦士」などと揶揄されるようになったが、基本的には彼らの守りたいことはそれ「表現の自由」もあるだろうけど「宇崎ちゃん」という作品そのもの、キャラクターそのものであり、それが「献血」というストレートに人の役に立つボランティアと結びついている状況そのものだったのだと思う。

宇崎ちゃんだけでなく、フェミニストは様々な作品やポスターを糾弾の対象にしてきたが、その度に「オタク」や「表現の自由戦士」だけでなく、広く一般に「フェミニスト」や「社会学者」への反発が起こるようになってきて、Twitter上で何かそのような動きが察知されたら多くのアカウントがボコボコにしにいく、という雰囲気になってきている。

フェミニスト自身が理論を物神化して崇拝しているところがあるから、自分の敵は「表現の自由」を唱える不埒な集団であると捉えているように思うが、実際のところ守りたいのは「個々の作品」であり、それを愛でる、あじわう自由であるところが重要なのではないかと思う。

これは言葉を変えて言えば、ある種のアニミズムと言えるのかもしれない。「作品」とか「人」というものに対する思い入れを持つ文化、日本はもともとそういうところが強いと思う。雑誌などを見ていてもたとえば文房具などに対しても、小説などに対しても、「もの」や「作品」に対する思い入れ、手入れの仕方、愛で方、その共通の趣味を持つ同好の士同士の交流、みたいなものが重視されているのは以前から変わっていないと思う。

その分、守るものが得られなかった人というのはかなり悲惨なことになり、いわゆる「無敵な人」になってしまうという問題はあるのだが、日本人の多くは守るべき人があり、守るべきものがあり、守るべき生活があって、抽象的な理念のために戦う暇はない、ということなのではないかと思う。

まあ書いているうちにこういう結論になったのだが、この辺りはまだブラッシュアップはできると思う。こういうアニミズムは恐らくは日本人の長所でもあり、短所でもある部分があると思う。役に立たないものについこだわりすぎて非効率化を招くなど、そういうのもこういうものが働いている可能性はある。

まあ全体的にもう少し考えたい部分があるようにも思うので、とりあえずのテーゼとしてそんなことを言っておきたいと思う。

いろいろと不都合な点は多々あるが、それでもそれを少しでも良くしながら、日本とそれが育んだ人々、作品、もの、生活を守っていけると良いと思う。 


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