「鬼滅の刃」:鬼にされた禰豆子が人間に戻るための物語(2)

Posted at 20/12/13

(1)の続きです。

鬼にされた禰豆子にも意思はある。主体性はある。自我がある、とまでは言えない。禰豆子が自我を取り戻すのは、人間に戻った時、22巻のラスト196話である。禰豆子は自分が誰であるかを思い出す。

「私は竈門禰豆子!!鬼に家族を殺された」と。

自我を失っていたものがそれを取り戻すときは、決して幸せなことばかりではない。自分がこうなってしまった原因、つまり最大最悪の衝撃と一緒にしか、取り戻すことはできないのである。この場面では、そのことがよく語られていると思う。

禰豆子には自我はない、しかし意思はある。そして、主体性もあるのだと思う。そう考えて第1話を読み直してみると、禰豆子は自分を殺そうとする義勇に対してではなく、禰豆子を庇って義勇と戦おうとする炭治郎を守るという「意思をもって」、戦っているのである。それはなぜか。炭治郎を食おうとする禰豆子を炭治郎は必死に押さえつけ、「頑張れ禰豆子、こらえろ、頑張ってくれ。鬼になんかなるな。しっかりするんだ。頑張れ、頑張れ!!」という。そして禰豆子は、鬼の目からボロボロボロと涙を零している。炭治郎の呼びかけが届いているのである。

おそらくはここで、禰豆子の「心の鬼化」は止まっている。それがなぜか、それは語られてはいない。しかし、ここで禰豆子が意思を持って「鬼になるのをやめた」ことは間違い無いように思われる。身体は鬼になってしまっても、心は鬼にはならない。それは奇跡でもあるが、おそらくは意思の奇跡である。だからこそ禰豆子は「特別の存在」なのである。

ここが「マンガのご都合主義ないし主人公補正」であるのかどうかというのは微妙なところだが、まあそうでないと話は始まらないという意味ではそうかもしれない。後付けでいろいろ理由は語られるが、たまたまであるにしろ何にしろ、禰豆子は鬼にされても主体性を持ち続けられる適性があったのであり、それはラストで実は禰豆子以上に、また驚くことに鬼舞辻無惨以上に、主人公の炭治郎自身が「鬼としての素質」があったことが愈四郎によって語られている。ここはまた、「鬼とは何か、人間とは何か」という根本的な問いかけの源にもなっている。

まあだから、「鬼滅の刃」が「庇われるだけの妹を、兄が頑張って救う」という、ジェンダー的にコレクトでない物語であるという批判は全く見当違いであることがよくわかる。最初からそんなくだらない人たちは相手にしていても仕方がないのであるが、その辺りに惑わされる人もいるかもしれないので指摘はしておきたいと思う。

先に述べたように、この物語は「炭治郎が禰豆子を人間に戻すための物語」であるだけでなく、「禰豆子が人間に戻るための物語」でもある。禰豆子もまた、自我は不鮮明ながら意思を持ち、戦っている。何のために?自分が人間に戻るために。それだけでなく、兄を守るために。そして、鬼と戦う人間のために戦っているのである。

つまり、この物語は「守ろうとする者は、守ろうとしている相手によって守られている」という物語でもあるのである。

そしてこのテーマは、もう1組の兄弟によっても補強されている。不死川実弥と、不死川玄弥の兄弟である。

この兄弟はとにかく周りに対して当たりが強い。先に出てくる最終選抜の同期でもある弟の玄弥は最終選抜を見届けにきた産屋敷家の娘に手を上げ、乱暴を止めようとする炭治郎に腕を折られている。(炭治郎も大概だ)

後に出てくる実弥は「風柱」であり、圧倒的に強い。柱合会議の前に炭治郎の裁判が行われた場面、第6巻46話で、ここも重要な場面であるが、ここで実弥は鬼である禰豆子を生かすことに強く反対し、実際に稀血(鬼が喜んで食らおうとする血)の持ち主である彼は、禰豆子を刀で突く。炭治郎は怒って実弥に飛びかかり、一撃を加えて周囲を驚かせ、「善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら、柱なんてやめてしまえ!」と言い放つ。

一触即発の場面に現れた鬼殺隊の主人である「お館様」は、「炭治郎と禰豆子のことは私が容認していた。そして皆にも認めて欲しいと思っている」といい、柱たちを驚かせる。柱たちの多くは強く反対するが、お館様は左近次からの手紙を読ませる。「禰豆子は強靭な精神力で人としての理性を保っています」と。

私は連載でこれを読んだときは、本当にその判断でいいのだろうか、と思っていた。鬼は鬼じゃないかと。左近次に暗示をかけられたとされる場面もあるし大丈夫なのかと。しかし、手紙は続く。

「もしも禰豆子が人に襲い掛かった場合は、竈門炭治郎及び鱗滝左近次、冨岡義勇が腹を切ってお詫びいたします」と。

左近次も義勇も、自分の命をかけて、炭治郎の願いを叶えてやりたいと思っている。そのことに炭治郎は涙を流す。しかし柱たちは心は動かされてもそう簡単に同意したりはしない。そこで希血(鬼が好む血)を持つ実弥が自らの腕を切り、禰豆子にそれを喰らわせようとする。鬼としての本性を暴こうとするわけである。しかし、炭治郎に声をかけられた禰豆子はプイっと横をむき、我慢する。それを見てお館様は「禰豆子は人を襲わない」ことは証明された、というのである。

お館様は、炭治郎と禰豆子が鬼殺隊として戦えることを証明しなければならないという。そのためには最も強い鬼である十二鬼月を倒しておいで、と。そうしたら炭治郎の言葉に重みが加わる、と。全くの正論であるが、炭治郎はさらに上を行き、「俺と禰豆子は鬼舞辻無惨を倒します!」と叫ぶ。お館様は微笑んで、「今の炭治郎にはできないからまず十二鬼月を一人倒そうね」と言われ、炭治郎は赤面し、柱たちもそれぞれの反応をする。この場面は本当にいい場面だと思う。

それはともかく、そういう実弥であるから、お館様に対して以外は、特に下のものに対してはあたりは常に強い。それは弟の玄弥に対しても同じである。お前なんか弟じゃねえと突き放す。しかしそれは弟が鬼殺隊に入るのをやめさせるため、鬼殺隊に入っても死地に赴くのをやめさせるためであることが後でわかる。

この物語には何人か、「才能がない」人間が出てくる。玄弥もその一人であり、鬼狩りの重要な武器である「呼吸」を彼は使うことができない。しかし彼は特殊体質の持ち主で、「鬼を食う」ことができ、そのことによって鬼の能力を使うことができるようになっている。

上弦の一である黒死牟との戦いでは、兄弟が共に戦うことになり、玄弥はその鬼の能力、血鬼術で黒死牟の動きを止め、彼に勝つことができるが、玄弥は死んでしまう。体が塵のように崩れていく弟に、兄は「大丈夫だ何とかしてやる!兄ちゃんがどうにかしてやる!」と叫ぶ。「守ってくれてありがとう」という弟に実弥は「守れてねえだろうが!馬鹿野郎!」と叫ぶが、玄弥は言う。「兄ちゃんが俺を守ってくれたように、俺も兄ちゃんを守りたかった。辛い思いをたくさんした兄ちゃんは、幸せになって欲しい、死なないで欲しい。俺の兄ちゃんは、この世で一番優しい人だから」

守られているものこそが、最も強く、守ってくれている人を守りたいと思う。その思いは、禰豆子も同じだろう。不死川兄弟のエピソードは、改めてそこを強く描き出している。

鬼舞辻無惨を倒し、世界が平和になってから、蝶屋敷を訪れた実弥は禰豆子と再会する。屈託なく話しかける禰豆子に実弥は、今まで自分がしてきたことを思い出して気まずい反応をするが、「守っていたはずの弟に守られて今生きている」実弥は、禰豆子のことを最もよく理解できる存在にもなったわけなのだ。禰豆子の「私眠るの好きです」という言葉に玄弥のことを思い出した実弥は禰豆子の頬を撫で、「達者でなア」という。思いがけない行動に禰豆子はドギマギし、影で見ていた善逸は嫉妬を燃やすが、それはまあお約束である。この和解の場面は、おそらくは炭治郎がいたらもうちょっとややこしくなっていたとは思われるわけで、シンプルな二人のやりとりが爽やかな読後感を生んでいる。まあ、炭治郎はある意味暑苦しいやつなのだなと思う。

禰豆子に関しては、おそらくはもっと語るべきことがあるのだと思うが、今回はとりあえず、「この物語は禰豆子が人間に戻るための物語である」ということ、「守るものは実は守られるものによって守られている」の二つを挙げておきたいと思う。

やはり禰豆子は、私の推しである。

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by Luke Peterson

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