「鬼滅の刃」:物語の中で炭治郎はどのように成長したのか

Posted at 20/12/09

「鬼滅の刃」の主人公、竈門炭治郎は「やさしくて強く、また長男としての責任感が強い」少年だ。この作品全23巻の間に、彼はとても成長したと思うのだが、そうではないというご意見も読んだのでその辺りをどう考えるべきか、少し考えてみた。

考えながら第1巻を読み、思ったことを書いていたら再び完全に物語の力につかまってしまって、まあそれでは批評は書けないわけだけど、この物語の捕捉力の強さは異常だと改めて思った。そして内的にその必然性を追えば追うほど物語の深さがわかるという点で、この物語は一つの稀有な傑作だと改めて思った。

それはともかく、炭治郎はもともと決して強くはない。義勇に嘆願して土下座して「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」と叱咤されるし、鱗滝には「この子はダメだ。思いやりが強すぎて決断ができない」とがっかりさせる。もちろんその彼らの判断を乗り越えて、試練を克服した炭治郎は「禰豆子を人間に戻すために」鬼殺隊にはいるわけだけど、その糸は最初はあまりにか細く道は遠く見える。

彼らの存在、「妹禰豆子を人間に戻すために鬼と戦う竈門炭治郎」という存在が「公認」されるのはようやく6巻、46話で「お館様」が「柱」たちの前で宣言しそれを柱たちが受け入れることによってであって、連載が始まってまるまる1年近くかかっている。そしてそこからが本格的な戦いになるわけだ。最終的に23巻になったので、その時点ではまだ端緒についたにすぎないわけだが。

ところでまず、「人が成長する」とはどういうことだろう。昨日、名越康文さんのメルマガを読んでいたら、その一つの定義が「トラウマを乗り越えること」だと考えられている、とあった。深く傷ついても、それを乗り越えて傷を修復することで相手を許すこともできるし自分も前に進むことができる。いつまでもトラウマに囚われていたらダメだ、というのは一つの心理学の常識だし、一般に我々もそういうものだと考えている。だが「鬼滅の刃」の鬼たちも柱たちも、この世の理不尽さや鬼に家族を殺されたことに深いトラウマを持っているものがほとんどだが、「相手を許す」ことなどしない。だが柱たちは「人のために戦う」ことで前進していく。名越さんのいうところによれば、これは心理学的にいえば「解離(問題解決から逃げて他のことに集中する)」であるのだが、むしろ人のために戦うことによって自らが癒されていく面もあるという。

このテーマでいえば、典型的なのが胡蝶しのぶだ。しのぶは鬼に両親を殺され、そのために姉妹で鬼殺隊に入るが姉も殺される。常に笑顔を浮かべているが、本当は常に怒っている。まさに解離だと。

私がこの作品で最も好きな場面の一つが6巻50話の炭治郎としのぶの夜の屋根の上での会話だが、しのぶは「わたしの夢」を「鬼と仲良くすること」だと語るのに対し、炭治郎は「怒ってますか?」と尋ねる。そしてしのぶはそれを肯定し、「体の一番深いところにどうしようもない嫌悪感がある」と答える。そして「姉は鬼に同情していた。私はそんなふうに思えなかった。人を殺しておいて可哀想?そんな馬鹿な話はないです」と心の内を吐露し、「でもそれが姉の願いだったなら私が継がなければ。姉が好きだと言ってくれた笑顔を絶やすことなく」という。「だけど少し…疲れまして」

そしてその期待を、炭治郎に託す。「鬼と仲良くなる」という期待を、「自分の代わりに君が頑張ってくれていると思うと私は安心する」という。許せないという気持ちと許さなければならないという気持ちのダブルバインド。これは毒親に苦しめられている子供などによく見られる状態だけれども、鬼に同情してしまう優しい炭治郎が頑張っていることで、しのぶ自身は許さなければならないという気持ちに囚われなくて済む。つまり逆にいえばより解離が進むことによって自分が救われるという面がある、ということになる。

最終的に、しのぶは姉を殺した鬼である童磨に自分も殺されることになるけれども、自らの身体を強い毒にしたしのぶは己を童磨に食わせることで童磨をも道連れにする。殺された童磨は幽冥界でしのぶに恋愛感情を吐露するような、まあいえば変態なわけだが(この童磨という存在の分析もかなり面白そうではある)、それに対ししのぶは「最高の笑顔」で(何しろ新聞広告になるくらいだ)「とっととくたばれ糞野郎」という。つまりしのぶは最後まで鬼を許すことなく、「トラウマを乗り越えることなく」死ぬわけだが、その生に価値がなかったとはいえないだろう。

その文脈の延長線上にあると考えられるが、炭治郎の成長は「鬼に同情するだけでなく、鬼を強く憎むことができるようになった」ということなのだ。そして鬼を憎めば憎むほど、人を憐む慈悲の気持ちもまた強く深くなる。最後には禰豆子を諦めてまで、鬼を殺し人を救おうとする。ここもまた最も好きな場面の一つだが、15巻126話の半天狗を追いかける途中で夜明けが来てしまい、禰豆子を日陰に隠さないと死んでしまうという場面で、ここで炭治郎が迷う、躊躇する場面が来る。そしてそれを断ち切るのは禰豆子であり、自ら炭治郎を蹴り飛ばして決断を促す。禰豆子の死の覚悟を受け取った炭治郎はより強い思いを持って鬼を追い、鬼を斬り、里の人を救う。より強い想いで鬼を憎むことによって、勝つ。そしてそこに奇跡が起こるわけだが、ここが炭治郎が「迷う」最後の場面になる。

炭治郎と戦う鬼の中でも、強さに囚われた存在である猗窩座は、炭治郎にとって煉獄の仇であり、不倶戴天の敵であるわけだけど、猗窩座にとってもまた炭治郎は自分が鬼になる前の恩人を思い出させる「最も苛つく」存在だ。猗窩座との戦いの中で炭治郎は父が生前示してくれた闘気のない世界、「透き通った世界」を思い出し、その無我の境地で戦うことで猗窩座もまた師匠とその恋仲にあった娘を思い出し、最終的には自分で自分を終わらせる。そして炭治郎は猗窩座から「感謝の匂い」を感じることになる。鬼たちの生前のドラマの中でもこの猗窩座の話は感動という点では最も強いものだが、これもまた普通の意味での強さ、憎しみによる強化だけでは勝てないレベルに到達することで炭治郎は勝つことができた。ここに「憎しみの限界」が示され、かと言ってそれは「許し」や「同情」ではなく、「無我の境地」によってこそそれを乗り越えることができるという話になり、ある意味「宮本武蔵」のような話になる。

最終決戦である鬼舞辻無惨との戦いでは、21巻181話でついに遭遇した時、無惨の語る手前勝手な論理に炭治郎は今まで見せたことのない表情を見せる。「お前は存在してはいけない生き物だ」。炭治郎が相手の存在を全否定するということはおそらく、「思いやりが強すぎて決断ができない」炭治郎をずっと見てきた読者にとっては、「ここまで来てしまったか」という思いを抱かせる。「生き物に対してこれほど冷たい気持ちになったのは、腹の底まで厭悪が渦を巻いたのは初めてだ」と。そして同時に極めて冷静になり、「少しでも有益な無惨の情報を引き出してみんなに伝える。それまで生き残る。そこからが本当の戦いだ」と決意する。彼は相手を許せるようになることで成長したのではなく、徹底的に相手を憎むことができるようになったことで成長した、と見ることもできるわけである。

余談になるが、炭治郎は「頑張れ頑張れ!炭治郎お前はできるやつだ!」と自分を叱咤したり、「長男だから頑張れたけど次男だったら頑張れなかった」などと言い聞かせたりするのは、ある意味ギャグというか滑稽なのだが、それはまだ彼が弱い頃の話で、強くなってくると自分を鼓舞する内面の言葉も変わってくる。ここは、「弱いものの努力はある意味滑稽である」という残酷な真実が示されているのかもしれない。

またいろいろと議論の多い最終回だが、私が一番胸にきたのは、炭治郎が次男に生まれ変わっていることだった。そして運動神経が抜群。炭治郎の逆だ。のんびりと命を満喫している。そういう意味で、私にとってはラストはこれ以外にないと思った。

トラウマを乗り越えることが人生を好転させるかもしれないが、トラウマを突き詰めることによってむしろ、状況を打開していくこともある。名越さんが言いたいのもそういうことではないかと思ったが、私もそれはなるほどと思った。

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