中河原村の姫宮社

Posted at 20/09/22

昨日はいろいろと気を使うことが多かったせいか早く眠くなり、8時ごろには寝てしまったので、今朝は起きたら4時前だった。でもそれから捨てるゴミを集めたり先日もらった花の処理をしたり、お彼岸用の花を買ってきたり、花瓶に生けて仏壇に備えたり、洗い物をしたり鯉に餌をやったりゴミを捨ててきたりお墓へ行って草をむしり、墓掃除をしてお参りしたりしてたりしたら6時を回った。

それから少し出かけて湖南の農機センターの場所を見に行き、足を伸ばして中河原の姫宮社へ行った。この神社は微妙な位置にあるのでお参りがしにくくて、今まであるのは知っていたのだけどお参りしたことがなかったのだが、今日は少し離れたところに車を止めてお参りに行った。

姫宮社の祭神は中河原村の古文書によると高志沼河比売命で創立は寛永12年だそうだが、隣の横内村の天文12年の文書には伍竜女宮大明神とあり、宝暦9年に中河原村に移されたとあり、横内と中河原は近い関係にあったようだ。ただ明治の合併で横内は永明村に、中河原は宮川村になった(概ね上川の北が永明村、南が宮川村)ので、史跡の調査なども村を超えることになって少しややこしくなったのかもしれない。

高志沼河比売命は元々は越後糸魚川の神で、大国主命の妻の一人であり諏訪の神である建御名方命の母になるのだが、水の神ということなのか、女神であり竜神でもある神と同一視されたのだろうなと思う。治水の難しかった時代は宮川と上川の間のこの地域はかなり氾濫したようなので、治水の神として祀られたのだろうなと思う。高志沼河比売命は矢ヶ崎村の御座石神社に祀られているが、そこから勧請されたとは書いていなかった。

御社は新しい感じで、屋根はスレートで木組は白く塗られていた。壁は新建材に見えた。これは覆い屋なのか、本体なのかよくわからないが、白い神社というのは多分初めてみたのでちょっと驚いた。

明治の神社合祀の影響なのだろうけど、祀られている摂社がいくつもあり、思いがけないところに天神様が祀られ、そこに説明の立て札があって、道真公の学問にあやかるよう子供たちがお祭りをし、亀石の河原からゴマ石を拾ってきて(詳細不明・引用者注)祠の前に敷いて、青竹を立て、学問のできるように祈ったのだそうだ。おかげで高河原の子供たちは勉強がよくできて小学校では先生から褒められた、のだそうだ。

また、中央道の高架の下に石の大きな仏像が立っていて何かと思ったら、元々の墓地が中央道の建設に伴って移転したらしく、お墓を持っていた人たちが立てたものだということがわかった。

いろいろと発見があって面白かった。

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by Luke Peterson

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