奪われること、与えること、フェミニズム、エコロジー、マルクス、などなど

Posted at 20/08/22

柄谷行人「世界史の構造」を読んでいる。

昨日Amazonで注文していた「世界史の構造」と「昭和史」の新本が届いたので、楓樹文庫で借りていたものはそこまでとし自分の本を読み始めた。まだ序説「交換様式論」の6「社会構成体の歴史」を読んでいるところだが、今まで読んだところで自分の中で整理されたことがいくつかあったのでその辺について。

マルクス主義の中心思想は生産関係の矛盾により必然的に社会主義革命が起こるということで、これはどう特により達成されるのではなく「科学的に必然的に」達成される、というものだ。そこは信仰っぽいのだが、生産関係の矛盾というのはつまり、「労働者が資本家に搾取されている」ということであって、それゆえに労働者は革命運動を起こし資本主義体制を打倒して社会主義社会になる、というのがその根本なわけだ。

この「搾取→革命」という論理、もっと細かく書くと「搾取→反発→覚醒→闘争→革命」という論理がつまりは革命理論であって、搾取されている労働者大衆の内在的反発を「啓蒙により覚醒」させて、闘争→革命に持ち込む、というのが運動家として重要である、ということになる。

柄谷は第4節で「交通概念」を説明しているが、これはわかりにくい。ただ色々読み、先々で述べられている内容から類推すれば「交通」とは流通、交流、交換、生物体の生命活動である代謝(必要なものを取り入れ不要なものを排出する)、略奪、収奪、搾取、贈与、恩恵、そういうあらゆる「意思的なもの意思的でないもの、強制力を伴うもの伴わないもの、全てを含めた物やエネルギーを受け取り、あるいは与えること」の動き全てを含んだものと解釈していいように思われる。

なぜこんなことを言い出したのか最初はよくわからなかったが、第5節で「人間と自然の「交換」」について述べていて、つまりは農業という形態、あるいは自然エネルギーの利用、あるいは化石燃料の使用など、普通は肯定される創造的行為にはつねに廃棄物や廃熱が発生することを指摘し、そこに自然への収奪=エントロピーの増大があることに話を結びつけていて、マルクスにはエコロジー思想があったという話になっている。これは全然知らなかったが、ググってみると同種の話は結構出てくるので、そうなのだろう。このマルクスのエコロジー思想が誰から、ないしはどこから学んだものなのかは多分どこかに研究はあるのだろうけどまだわからないが、重要なことは柄谷がそこの重要性を強調しているところだろう。

元来、社会主義国家の政策というのは自然からの収奪がひどいケースが多く、一番典型的なのはアラル海を消滅させたソ連の農業政策な訳だが、そこは従来の「マルクス主義」が「エコロジー=自然からの収奪への反対」という視点がなかったということになるわけだ。

私は正直言って今まで環境運動とかが何をしたいのかがよくわからなかった。環境が悪化していることはわかるしそれを止めなければいけないかもしれない、ということはもちろんわからなくはないし、個別の運動は十分理解できるのだが、特に地球環境問題に関してはよくわからないというのが正直なところだったのだけど、この部分を読んでいて、要はエコロジー運動というのは「人間活動による自然からの収奪=搾取に対する反対」の運動だということでかなり腑に落ちた。

そこからの類推で、例えばフェミニズムは「人間社会における女性からの収奪への反対」と考えればなるほどそういうことかと理解できるし、反人種主義運動も「人間社会における有色人種からの収奪への反対」と考えれば理解できる。理解できるというのはそれらの運動に賛成するということではなく、彼らが何をやろうとしているのかについて、自分なりに理解ができた、ということではある。

まあこういう理屈があったから、労働者に対しては福利厚生や割と高めの賃金を与えるなどの政策が行われるようになって、革命までいかなくても議会政治で漸進的に社会主義体制を実現していこうという修正主義運動が強くなっていったわけだが、冷戦期は資本主義諸国でも社会主義の脅威に対抗するために、そうした福祉政策は強力に推し進められてきて、資本主義諸国の一般大衆も全体的に生活が向上したという面はあった。

労働運動の多くは特に日本ではそういう形で骨抜きにされ、また逆に激しい闘争を行いすぎたために大衆から嫌われて現代では先進国の中でも平均収入が大変低いという状態にまで労働運動の無能化が進んでしまったわけだが、世界的に見ればそうでもないし、またフェミニズムやエコロジズム、BLM運動などの先鋭化には、やはり「収奪されているものがその収奪に反対する」という視点が強く出されていて、日本のフェミニズムでは女性の性的表象を収奪的とみなし攻撃するのが盛んになっているし、反人種主義の観点からは「黒人のコスプレをすることは黒人文化の収奪=盗用行為」みたいな話に展開している。

まあ、自然は自分から文句を言わないので「男性成人」の対極の「少女」をアイコンにして「自然を代弁して」エコロジーを盛り上げようとしているのだなと思う。

問題は、この「搾取=収奪」という概念が妥当なのかどうか、というところにあるのだと思うが、全く否定するとネオリベラリズムになってしまうし、かと言って「搾取=収奪」するものとされるものを対立的に捉えすぎるのも正直あまり妥当だとは思えない。「与える=与えられる」「奪う=奪われる」「売る=買う」「納める=徴収する」というのは全く違うことのようでいて、「結果的にものやエネルギー、価値が移動する」ということにおいては同じなわけで、そこには宗教的・哲学的・経済的・政治的・社会的・法的・科学的な問題が全て含まれていると言ってもいい。そこを「搾取=収奪」で色付けすぎるのも問題が多いように思われる。

まあとりあえずこのことについてはこの小論において結論を出せることではないので、とりあえずそんなことを考えた、ということで今は筆を置こう。

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