柄谷行人「世界史の構造」序文を読んだ/日本人はなぜこんなに「平和信仰」が強いのか

Posted at 20/08/19

柄谷行人「世界史の構造」、読み始めた。とりあえず序文を読んだところで内容とか感じたこと、思ったこと、考えたことなどまとめておこうと思って書き始めたが、とりあえずそのときそのときに感じたことや思ったことはツイログで下の二日分にある。

https://twilog.org/kous37/date-200818
https://twilog.org/kous37/date-200819

いま日本はコロナ禍でいろいろ大変なのだが、隣国の韓国や台湾では日本に比べていろいろと上手に問題に処したように思われる。特に台湾はこの期間で経済成長も成し遂げていて、日本の中途半端な感染抑止対策と経済活動維持の二本立て政策に比べ、さっさと国境を閉鎖しオンラインでできるものをオンラインに移行した台湾の対応は水際立っていたように思う。それは民進党の蔡英文政権の手柄でもあるが、中でもデジタル大臣であるオードリー・タン(唐風)氏の存在は大きいと思う。

そのタン氏がインタビューに答えている記事が下のリンクなのだが、この中でタン氏は柄谷行人氏の「世界史の構造」で取り扱われている「交換様式論」に強い影響を受けたということを言っていて、かなり意外に思った。柄谷氏といえば文学評論家だし、左翼であることは知っていたが、2010年に出た「世界史の構造」はかなり周りに戸惑いを広げていた記憶しかなかったからだ。

https://toyokeizai.net/articles/-/363750

しかし、少し調べてみるとこの著作はかなり売れていて、実際に台湾や韓国だけでなく、日本でも柄谷氏を「世界史の構造」の人、と認識している世代が出始めているというようなことを知った。

私は故中上健次氏との対談本で小林秀雄を批判しているのを読んでそれ以来彼の著作は読まなくなったのだが、これだけの影響力を持っているからには何かあると思って「世界史の構造」を読んでみることにしたわけだ。

読んでいてわかったことはいくつかあるが、柄谷氏は彼自身の中ではやってることが変わったわけではないということ。彼はずっとマルクス主義者であって、今やろうとしていることも要はマルクスの課題をマルクス語の世界の変貌を知っている彼自身の立場から自分の課題として取り組んだ、ということなのだと思った。それまではテクストを語る中で自分自身の思想を語ってきたが、マルクスが誤ったところを直していくうちに自分で理論を構築せざるを得なくなった、ということだと。

1989年に始まる東欧革命は共産圏の崩壊を意味したわけで、その中で柄谷はなぜこういうことになったのかについて考え続けたわけで、そこまでマルクスにこだわり続ける姿勢はなかなかすごいと思うが、教条主義者たちとは違って彼はマルクスの考えそのものにその問題の所在を見つけた。しかし社会変革の契機を道徳に求めようとした勢力とも異なり、また乗り越えるはずだった資本主義・国家・ネーション(国民)・宗教というものを現実と認めざるを得なくなってそれを超える理念を嘲笑するようになったポストモダニストとも違って、マルクスの「生産関係の矛盾が必然的に社会主義革命をもたらす」という考え方の、生産関係のみを重視する考え方を問題視して、「生産関係よりも交換関係に注目すべき」と考えたのは、教条主義者でないマルクス主義者としては私が読んだ中では最もなるほどと思う理論に仕上がっているのではないかと思われた。

私はマルクス主義者ではないし、左翼でもない。子どもの頃は中学生の頃までは無邪気な進歩主義的な考えを持っていたと思うけれども、中三の時に「民主主義はなぜ「正しい」のか」という疑問に取り憑かれ、自分の周りに多かった進歩主義者や社会主義者、あるいは天皇制否定論者の意見などもなんとなく聞きながら、とりあえずそういうものに乗ってみてもいいけどこれは自分自身の考え方ではないよなあ、という感じを持ち続けていた。

自社さ村山政権で社会党がついに政権を取り、社会党首班の政府が成立して、彼らの理念が実現することによってどういういいことが起こるかと思っていたら現実には阪神大震災で自衛隊が思うように動けず、地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教事件でも実際に動いたのは自民党の野中国家公安委員長で社会党閣僚は何もできず、ああこんな人たちに期待していたのかと全く幻滅してしまって、むしろ対極である保守の思想、右翼の思想の方に関心を持つようになっていろいろ読むようになっていった。

だから、私と柄谷行人には接点はほとんどなく、そういう保守的思想を渉猟する中で白洲正子から小林秀雄に行きついて、これは面白いと思っていたら柄谷と中上が「小林秀雄をこえて」で小林を批判していて、それが牽強付会にしか読めない部分が多く、柄谷には反感しか残らなかった。そういうわけでその時からもおそらく20年くらいは経っているので、初めて彼自身の文章をちゃんと読んでいるという感じがある。

柄谷が問題にしているのはやはり社会主義諸国はなぜ崩壊したのかという問題と、日本においてなぜ左翼革命主義がこんなに嫌われているのかという問題の二つがあるように思う。

前者は、革命体制が国家やネーションの問題に振り回されてうまくいかなかったということ、後者は70年代まで続いた日本の新左翼運動や労働組合運動が暴力的なものになり、一般国民に強い忌避感を持たれたことがあると思う。

マルクスの革命理論の根幹は「生産関係の矛盾が必然的に社会主義革命をもたらす」ということで、「生産関係の矛盾」とは「資本家が労働者を搾取する」ことだから、労働者は団結して戦って資本家を倒し社会主義国家を樹立するのは必然ということになるわけだが、この「戦い」が日本では特に暴力化し、陰惨な内ゲバやテロ事件をもたらしたために全く支持を失ってしまった。

ここを柄谷はヘーゲルの「資本=ネーション=国家の三位一体」を止揚するためにマルクスが「資本主義経済」と「ネーション=国家」を分離して考えたところに問題があるとし、ネーションや国家の問題に対応するためには「生産関係の矛盾」ではなく「交換関係の矛盾」について考えなければならないという新しい理論に至ったわけだ。そうなるとおそらくは暴力革命も必要ではなくなり、日本で支持を失った大きな部分を修正できるという考えも、これは明記はされていないがあったのではないかと私は想像した。

この「交換関係論」を台湾のタン氏や韓国の協同組合運動関係者が参照しているとのことなので、ここが一つの彼の思想のポイントと考えるべきなのだろうと思う。

ヘーゲルとマルクスの違いはヘーゲルが「事後」に世界を捉えて思弁的理論を構築したのに対し、マルクスは「事前」に社会はこうなっていくという「必然」を説いたところにあるが、それはカントのような倫理的・道徳的目標ではなく、科学的に考えれば必然的にこうなるというところに根拠を置いてそれを「唯物論」と称したわけだが、「必然」を得ことによってマルクスはヘーゲルを超えるだけでなくカントに復帰しないことをはかっていて、柄谷もそこはマルクスの思想の重要な部分であると考えているということは理解できた。

そこを必然ということ自体がもちろん未来のことだから信念でしか本当はないのだが、そこを必然と断じ行動することに意味があるというダイナミクスを、逆にいえば危険性をマルクス主義は持っている。

マルクスはカントを否定しようとしているが、柄谷は「事前」という点においてマルクスとカントの共通性を見出しているのだが、特に柄谷がマルクスを考える上でのカントの重要性を見出そうとしたのは「恒久平和論」にあるようだ。

おそらくは柄谷もその価値を認めているであろう日本国憲法9条はカント由来であるといい、それはカントの諸国家連合の構想を平和論としてではなく国家=ネーションを止揚するためのものと考え、カント自体も「永久平和のために」をフランスだけで革命が起こったために市民革命が失敗したが、世界同時に起こったらうまくいくと考えていたとし、そこにマルクスの世界同時革命論を結びつけて、要は世界政府的な多国間連合の方向性を理想とみなしているようだ。

これはマンガ「キングダム」の中で秦王・嬴政と相国・呂不韋が論争した内容、嬴政は「中華の統一」を目指し、呂不韋は各国の強調による商業の資本主義的発展による繁栄を目指す、という議論を思い出させた。これはマンガの中ではもちろん嬴政が勝ったのだが、現代の世界の現実は呂不韋の言うようになっているというべきかもしれない。ただ、その嬴政の夢想を、カントもマルクスも柄谷も生きている、ということなのかもしれないとも思った。

柄谷の議論は大体こんな感じかな、というのはイメージ的には掴めたのだけど、ちょっと付け足したい。

「ゴーマニズム宣言」を読んでいたらアメリカの識者と小林よしのり氏が議論した際、日本の民主主義とアメリカの、またアメリカだけでなく世界の民主主義との違いは、日本の民主主義論には「平和」が大きくあるということだとアメリカ人が指摘していて、これが印象に残ったところだった。

「世界史の構造」の序文の中でも、911後の多国籍軍などの議論において、アメリカのネオコンがドイツやフランスが国連を持ち上げることに対して「カント主義的夢想」と冷笑したということが出てきて、日本で「民主派」が最も重要なものとして平和を持ち出すことへのアメリカ人としての違和感みたいなものが小林氏との対談でも表明されていたのだなと思う。

確かに日本の左派において「平和」信仰は異様なくらい強く、「民主主義的に話し合って戦争することにした」みたいな結論にはものすごく強い拒絶反応を示すと思われるし、その一方で心配しているのは「日本が戦争に巻き込まれること」であって世界の戦争について本気でコメントしていることはあまり多くなく、特に中国やソ連など「社会主義国=平和勢力(笑)」の侵攻に対しては視力と発話力を失ったのかと思うくらいの反応になりがちだった。

この畸形的な「平和信仰」がなぜ日本を支配しているのかについてはどこかでもっと納得のいく説明が欲しいなと思っているのだが、とりあえずまず柄谷「世界史の構造」をちゃんと読もうと思う。

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