19世紀の遺物が21世紀に復活している

Posted at 20/08/27

とあるフェミニストの女性が代理母を利用して子どもを産ませることで、バリバリのキャリア女性のキャリア形成の障害になっている生物学的な限界を越えようと提案しているのが、ネット上でかなり叩かれていて、これは本当に人間的自然を無視した暴挙だと思うけれども、もともと代理母というのはさまざまな理由で子どもを産めない身体の女性がなんとか自分の子供が欲しいから、ということで始まったことで、日本でも行われたその事例は母親が娘の代わりに出産するというものだったと記憶しているが、今ではある種の貧困ビジネスになっていて、貧しい家庭の子供や発展途上国の女性がそれを請け負うという形になっている、ある種の階級搾取の問題と捉えた方がいい形になっているように思う。

それと同じような話で今日ツイッターのタイムラインに流れてきたのが、何度も結婚と離婚を繰り返した富裕層の男性の子供たちが有名な中学受験の塾でバッティングしたという話で、実質的な二号・妾のような形で何人も女性たちを独占しているという話だった。こちらの方は昔は珍しくない話だったが、よりサイコパス的な話もあったのだけど、とりあえずそれはスルーしておこう。

この話に出てきた富裕層の男性は早稲田系の学校を出ているようだが、実は1900年の大晦日の深夜、慶應義塾で「世紀送迎会」というのが行われたという話を、呉智英さんの本で読んだことがあり、今上の二つの話を読んでそれを思い出したので、ググってみたら実際に慶應義塾大学のサイトに掲載されていた。

https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2000/223.html

19世紀の閉幕とともに、福沢諭吉も見守る中、古い時代の弊害を描いた三枚の風刺画を学生たちが一斉射撃で葬り去る、というまあ啓蒙主義丸出しの臭い演出で、同時に点火された絵が燃え上がり、花火で「20センチュリー」という文字が浮かび上がったのだそうだ。

ここで葬り去られた3枚の風刺画とは何か。一枚には「儒学者の夢」もう一枚には「階級制度の弊害」最後の一枚には「蓄妾の醜態」と書かれていたのだそうだ。

いつまでも古い時代に固執する「儒学者」の夢。今で言えばマルクス主義的ないつまでも更新されない革命願望のようなものだろうか。「階級制度の弊害」これは正直言って、ネオリベラリズムの進展の中でますます所得格差は広がり、階級間格差は拡大している。「蓄妾の醜態」これはつまり、上に述べたようなことだ。

つまり、120年前に高らかに啓蒙主義を歌った慶應義塾の教師や学生たちの手によって福澤諭吉の御前で葬り去られた「19世紀の遺物」が、21世紀のいまになっていつの間にか復活している。そして、そのネオリベラリズムの推進者の中に、少なからず慶應の出身者もいるという事態を、福澤諭吉はどのように見ているだろうか、と思った。

進歩主義の成れの果てが今の惨状であるのだとしたら、我々は何をどう考えていけばいいのだろうか。

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by Luke Peterson

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