民主主義とは人を集めること

Posted at 20/07/19

思想の右左にかかわらず、人は集まりたがる。新型コロナの感染拡大防止のため、多人数の集会は各国で自粛を呼び掛けられているが、それでも多くの機会に人は集まり、感染は拡大している。

このソーシャルディスタンスの動きに最初に反発したのはBLM運動で、多くの人々が集まって差別反対を訴えた。一方でトランプ大統領は選挙集会を大規模に開き、マスクもしないで支持者に呼びかけた。コロナ対策に懐疑的だったフロリダ州などでは大規模に感染が拡大し、対策を取らない対策をとったスウェーデンは近隣国に比べて多くの死者を出しているだけでなく、経済も減速するという結果を招いた。

日本でも連日感染者が200人越えの東京で麻生派の政治資金集めパーティーが開かれ、東京は除外されたものの観光業の悲鳴に応える形でGoToキャンペーンが始まった。

旅行は家族や仲間との親睦を深める機会でもあり、普段は個人の自由という価値を大事にしている一方で、人間は動物であり、しかも集団で群れざるを得ない動物であることが社会の様々な諸相で明らかになってきている。

民主主義、民主政治とは金を集め、人を集めることだなと一連の動きを見ていると思うが、それは感染症の拡大という大きなリスクを伴う。日本のような同調圧力の強い社会では一度外出自粛が空気となれば徹底して自粛するのでかなり感染が抑えられた反面、緩和されると一度にハメを外す人々も多い。しかしそれも欧米に比べれば程度はそれほどではないわけで、個人の自由を信奉し人々と幅広く交際することを前とする欧米ではマスクや社会的距離のような行動制限は嫌われ、結果数万人規模での感染を招いている。

そういう意味では、日本の自粛警察のような動きも、感染症を乗り切るためには必要な心的機制としてわれわれの心性にビルトインされているのかもしれず、一概に非難すべきものでもないのかもしれない。

ただ、どんなに気を付けていても感染する人はするので、それを非難するのは行き過ぎであることは確かなのだが、その辺りのところで理性的になれない人はどうしても出てきてしまうのは痛し痒しではあるだろう。

コロナの回復者に関しても、後遺症の問題が取り上げられるようになってきた。コロナ肺炎に冒された肺胞は完全には機能が回復しないという話もあり、そうなるといわゆる「片肺」のような状態になり、呼吸がかなり負担になるようになるだろう。そういうことを含めて、感染しないのが何より大事なのだが、人々の意識は十分にコンセンサスが取れているとは言えない。それは先に述べたように人間は集団的な動物であり、経済もその集団で動くことを前提として動いているので、コロナを防ぐことと経済を回すこと、また民主主義的に社会を運営することとが両立させるのが困難だから、という面は否めない。

もし抗体ができても免疫の期間も短いし、十分機能するかどうかの研究もまだ確立はされていない。結局個人としては感染しないように行動するしかないし、集団で動くときには極力感染が拡大する可能性を排除していくしかないのだろう。

この感染症との付き合いがどのようになっていくのか、現時点では先のことは分からないが、場合によっては地域の内部で生活が完結するようにしていくしかないのかもしれない。それは人生のステージで進学や就職によって地域を移動するという今までの当たり前がどのように変化するかの問題でもある。生活のあり方だけでなく人生に対する考え方も変えていかなければならない部分も出てくる可能性もある。

とは言えどんな時代も人は都市に群れて生活していたわけではなく、中世初期のように人々が都市を捨て、田舎に居住するようになった時代もあった。

IT技術等の発達した現在は、むしろそういう方向へ行く条件が以前よりはあるようになってきたと思うが、都市に集住することで文化文明を築いてきた現代人がそう簡単にその方向にいくのかどうかもわからない。

ただ、民主主義を含め、様々な人間の存在形態が変化していかざるを得ない可能性は出てくるだろうなあとは思う。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday