保守合同とか学問の弱体化とか

Posted at 20/07/16

今朝は資源物を出す日なので新聞をまとめたり段ボールを縛ったりペットボトルを集めたりした後車で出かけ、セブンでヤンジャンを買い、そのまま湖畔を走って下諏訪の方に行った。今日は雨上がりの、でも少し雲のある気持ちの良い空気で、湖畔の駐車場に車を止めて湖の写真を撮ったり、空気を楽しんだりした。帰りは下諏訪の町の中を通って下諏訪駅を見て、国道をうちに帰る途中で統廃合の予定がある城北小学校を見に行ったりして帰ってきた。

ツイッターでなんとなく自分が書いたことや人が書いたことでちょっと気になることを2つほどメモしておこうと思う。

1955年の保守合同以来、その後に自民党を出たり他党から移ってきた人が自民党首班で政権を握った例はないわけで、その点では今は党の中枢を小沢氏らと離党した二階幹事長が握り、次期首班として鳩山邦夫氏らと党を抜けた石破氏らが挙げられているというのは、ちょっと変わった時代かもしれないなと思った。

1955年の保守合同というのはそれだけ大きな出来事だったわけだけど、それまで多党化していた保守政党をまとめ上げたのは、反吉田自由党で政権を握った鳩山一郎政権の三木武吉の尽力によるものだったが、それは右派社会党と左派社会党の合同により大きな社会主義政党が成立したことに保守側が危機感を覚えたことが大きかったと思われる。

特に鳩山政権は憲法改正を唱えていたわけだし、保守の理念で共通するものを集めるというのは喫緊の課題ではあっただろう。当然ながら社会党の背後には共産圏の脅威というものがあり、また漁業交渉や抑留者の帰国などにおいて日ソ国交回復もサンフランシスコ平和条約の積み残しである重要な課題として残っていた。鳩山は日ソ国交回復に意欲を持っていたわけだが、やはり強力な安定した保守政権の成立はそのためにも必要なものだったのだろうと思う。

この辺りの政治過程からその本質がどこにあるのかというのは調べてみるといろいろ見えてくるものはあるのだと思うが、今はとりあえず無くなった共産圏の脅威というもの(中国・北朝鮮問題として残ってはいるが)が当時の人にとってどのように意識されていたかということを再確認するのも意味のあることだとは思う。

別の話題だが、「ポストモダン」とか言い出したあたりから学問はおかしくなった、という話があって、それは自分が高校生から大学生の頃なので多分そういう学問のニューフェーズみたいなものに「乗せられた」ような年代なんだなと思うし、当時自分が関心を持っていた学者の方々の話とかを高校の先生にしたら「そういう人たちでなくもっと地に足のついた研究をしてる人が重要だ」みたいなことを言われた覚えがある。

多分私は「先生も頭が古いな」と内心思ったように思うが、今40年前を思い出してみるといろいろ思うことはあるなあと思う。

若い新進気鋭の学者をマスコミ等が取り上げてアイドル化・スター化するというのはちょうど浅田彰氏や中沢新一氏らの頃から始まったのだと思うが、その後テレビ出演が多い学者さんが芸能事務所に所属したりするなど、やや勘違いしてるのではないか(実務上便利なのだろうとは思うが)と思われるような事例も出てきた。

今でこそポストモダン・ニューアカデミズム等の惨状がいろいろと認識されるようになってはきているけど、当時の自分にはあまりよくわからなかったし、新しい学問というものはこういう方向にいくのだろうなくらいに漠然と思っていたように思う。

ただこの辺も、社会の全般的な変化の中にこの傾向を投入して考えてみると、いろいろまた違った形で見えてくるように思った。一部の学者のスター化や既存の学問を批判するポストモダニズムの流行というのは、既存の学問を相対化するという意味で一つの刺激にはなったと思うが、社会全体が既存の学問を軽視する方向性も生み出してしまったのではないかという気がする。

これも当時の自分にはあまりよくわからなかったことだが、学問や教育というものは実社会・一般社会と言われるところから「浮いている」という感覚が割合広く存在する。私はそういう「実社会」的なしがらみみたいなものが面倒だったから学問や教育(その他芸術等)の分野がいいなと思っていたけれども、浮いてはいてもそれらの世界がなくなったりとか、それらを支える基盤みたいなものが失われていくということはあまり考えたことがなかった。だから、その世界で生きられればあまり「実社会」みたいなものと関わらないで済むかも、みたいな発想はやはりあったと思う。今でもないとは言えない。

ただそれは、学問や教育や芸術というものが、社会全体に強固に根を張っているというのが事実であれば成り立つことではあるが、最近明らかになってきたのは必ずしもそうではなかったということなのだろうと思う。

私が学生か卒業したかくらいの頃に、東大駒場、つまり教養学部で中沢新一招聘問題というのが起こり、学部内で激しく対立が起こった結果、招聘は実現せず西部邁氏らが東大を退職したという出来事があった。

これは当時は頭の硬い教授連が新しい学問の旗手である中澤氏の受け入れを拒否した、というくらいにしか考えていなかったが、東大社会学が上野千鶴子氏らを受け入れたことでどのような変化が起こったかということを考えれば、「新しい学問」がどのような変化を大学や社会にもたらすかということの根本的な問題がその背景にあったのだと今では思える。

西部氏らが辞めたのは学問的に中澤氏と親近性があったからではないが、どうもあの事件は結果的に「新しい学問」の勢力を強めたような気がする。まあ、それがなくてもそういう傾向は強かったのかもしれないが。

私が今そうだったのかなと思っているのは、「新しい学問」の側が既存の学問を批判したことが、「実社会」の側の「反学問」的な空気に有利に働いた、ないしはうまく利用された、あるいは最初からその方向で支援されていたのかもしれない、みたいなことであって、まああまり言えば陰謀論臭くなるので結果的に同じ方向に力が働いた、くらいに考えておいた方が良いのだろうが、とにかくその批判をうまく利用して「大学改革」が行われ、学問の「実社会」への従属度が高まり、「学問的価値」の主張が取り合われなくなり、予算も減らされ、人員も減らされ、というのが同じ軌道上にあったのではないかと思われることだ。

スター化した学者がもてはやされ、地道な研究者は見向きもされなくなる、ということ自体は昔でもないわけではなかったと思うが、学問の世界と「実社会」との関係はそうなってきているのだろう。

「実社会」の側のスポンサー意識の高まりみたいなものもかなり強くなってきて、学者の側が学問的立場から発言すると「穀潰しが上から目線」みたいな反応が強くなってきている。まあこの辺りは従来から言われていることだから特には言わないが、とにかく「実社会」の側からの「学者や先生は実社会を知らない」認識信仰は相当強力で、これを反転させるのは並大抵のことではないと思う。

原理的なことで言えば、学問と「実社会」がバランスよく協力しあっていくことが日本の将来のためにも世界の将来のためにも大事なことであるのはいうまでもないのだが、この辺りのお互いの不信感や諦めみたいなものはかなり根深くなってきている感はあるなと思う。

とりあえず、新自由主義的な「実社会」の現在の傾向と「新しい学問」の登場によるある種の学問の弱体化が、震源地が同じなのかどうかはともかく、相伴って今日の事態をもたらしているだろうことだけはメモしておきたいと思う。

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