補助線

Posted at 20/06/15

今朝は少し遠出して、20号をずっと上りの方へ行き、富士見駅と信濃境駅まで行った。富士見と信濃境の間が結構距離があり、富士見駅近くのセブンに寄ってから帰りに諏訪南インターに曲がるローソンによるまでの間が1時間近くかかっていて、出発したのは5時20分頃だったのに家に帰ったのは7時20分くらいになっていて、思ったよりかなり時間をかけたドライブになった。

これから何をして行こうかということでしばらくずっといろいろ考えていたのだけど、ビジョンを作ろうと思ってもなかなかうまく浮かんでこなくて、何がそれを押し留めているのだろうということを考えていた。もともと私は妄想癖というかいろいろなことを想像して考えるのは子供の頃からで、想像しているうちに楽しくなったり怖くなったりするようなタイプであったのだが、どうもうまく自分と世界のこれからを想像できなくなっていて、何が原因なのかなと思っていた。

ドライブしながらいろいろ考えて、なんというかいつの頃からか自分が希望を失っているというか、明るい未来を信じられなくなっているところがあるなあということに思い当たった。生きていく中でいろいろ擦り減っていくものもあるし、ある時急に今まで信じられたものが信じられなくなったり、容易に夢みられていたものが夢見られなくなったりしていく、それはそういうものという見方もできなくはないし、より世界が見えてくることで根拠のない夢みたいなものが持ちにくくなっているということもあるのだけど、でもそれはそれでいいというものではなくて、自分がそういう相対主義の罠に落ち込まないようにいろいろと仕掛けもしてきてはいるということはある。

それは、対立する二つの意見があったときに自分はどちらに賛成なのか、自分の身を置くならどちらなのか、ということを常に考えるという思考実験はしている。ただそれでもそのうちそういう対立そのものがばかばかしいものに見えてくることもあり、そうなるとそこの場にあえて身を置くのも時間の無駄だと思うこともあるので、ただ、一度そこに身を置いてみないと、つまり尾根の上から沢を見下ろすだけでなく沢まで降りてみないとわからないこともあるから、そのことに意味がないわけではないと思う。

だから自分が陥っているのは基本的には相対主義の罠ではなくて、自分の生命体としての力が減退してきているということが問題なのだと思う。ただ、それは80歳や90歳の人が自然に老衰で命の火が消えるような意味での減退ではなく、まだ燃焼できるものが燻っているだけだというふうには感じる。

それならどうしたらいいかと考えながら車を走らせていて、脳裏に浮かんだのが「一人でいてもさびしくない男になれ」という頭山満の言葉で、これは元々は自分が正しいと思ったことは一人になってもそれを貫けということでもあり、また一人になっても生が充実した生き方をしろということでもあって、ビジョンを描くならまず自分自身がどう充実した生き方をしている人間になるかというビジョンから描くべきだと思ったのだった。

なかなか考えにくいことは多いのだけど、いろいろ補助線を引きながら今後の構想を作ろうと思う。

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by Luke Peterson

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