モーツァルトとハイドンの時代

Posted at 19/10/03

昨日カール・フィリップ・エマヌエル・バッハがフリードリヒ2世に仕えたということを書いたけど、音楽家の活動時期もそのように君主や政治動向と結びつけて考えるとどういう時代だったかがよりわかるということを改めて思った。

例えばモーツァルトが父レオポルドの影響を離れ自活することになったのはウィーン定住以降と考えると自発的な活動時期はその1781年から1791年の死去までの11年間(短い!)と考えられるが、それはほぼ啓蒙専制君主ヨーゼフ2世(位1765-90)の後半期に当たり、その治世の前半1780年までは母・マリア・テレジアと共同統治だったので、ほぼ彼の単独親政期ということになるが、ヨーゼフは宮廷楽長アントニオ・サリエリの方を優遇し、モーツァルトはあまり恩恵を受けていない。これは父レオポルドの強引さをマリア・テレジアが嫌ったためだとされている。モーツァルトは宮廷音楽家としてではなくフリーの音楽家として自活した最初の人物だという話があるが、宮廷との疎遠もそのようになった理由としてはあるだろう。また彼が客入りが期待できるオペラに尽力したのもそうした収入の問題は大きかっただろう。

モーツァルトと親しかったハイドンはハンガリーの大貴族エステルハージ公ニコラウス1世の宮廷楽長を1761-90まで勤めているが、音楽家が仕えた宮廷は必ずしも有名な国王ではないので、音楽家について調べ始めるとつい日本ではあまり知られていな貴族たちについて調べ始めることになってしまう。1790年のニコラウス1世の死後、ハイドンは年金を得てロンドンに渡り、イギリスで成功を収めるが、1794年に孫のニコラウス2世が家を継ぐとハイドンは再び宮廷楽長になるものの、彼はウィーンでの暮らしを好んだためにハイドンもその後1809年の死去に至るまでウィーンで暮らすことができた。死去当時のウィーンはナポレオンの占領下にあった。

以上、簡単な素描。
「マイヤ・プリセツカヤ」少し読み進んだが、1934年の第17回ソ連共産党大会でスターリン不支持が1200票中300票も出、一方キーロフ不支持が3票しかないという衝撃的な事態が起こり、スターリンは不支持3票と改竄して発表したものの、この事態がその後の大粛清につながり、マイヤの父ミハイルもそれに連座して投獄・銃殺されたというくだりが印象深かったのだが、この辺のことについてはあまりちゃんと調べたことがなかったので歴史の一ページという意味でも勉強になった感があった。

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