好き嫌いと戦略論/求道(研究)と啓蒙のバランス

Posted at 19/06/19

昨日から、いや一昨日か、楠木建「全ては「好き嫌い」から始まる」(文藝春秋)を読んでいるが、面白い。私も概して好き嫌いで考える方なのだが、いつの頃からか「良い悪い」で考える習慣も身について、それで身動きが取れなくなることがよくあったので、その辺のところを見直してみるきっかけとしてこの本はかなり面白そうだと思った。「あくまで個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。」と各章の初めに書かれているのはお断りであると同時に好き嫌いに絞って書くぞという著者の宣言=いましめでもあるのかなとも思うが、必ずそういう風に書くという「様式性という遊び」でもあるのだろうし、色々な形でスタンスをはっきりさせようとしているところが面白いと思った。
今までのところ(現在85ページ)特に面白いと思ったのが、「ゲームが嫌いだ」というところ。ゲームに類するスポーツも嫌いで、でもその中でも運の要素の強い麻雀は好きだ、というのが面白いと思った。その辺考えてみると要するに好き嫌いの要素が強いアート性の傾向の強いものは好きで、勝負事、勝ち負け、良し悪しに回帰するゲーム性の傾向の強いものは嫌いだというのは、割とわかりやすい考え方だなと思った。

普通勝ち負けを重視するのではないかと思っていた戦略論の専門家がむしろ勝ち負けや良し悪しの考えが嫌いで好き嫌いの要素を重視している、というのはとても面白いことだなと思ったし、でも戦略家というのは考えてみたら全体を絵のように捉えてその中にちょっと凝った作戦を施していくという感があり、ゲーマーではなくアーチストと言うべきなのかもしれないと思ったりした。もちろん、一人の人間の中に当然その二つの要素はあると思うのだけど、現在の勝ち負け重視(勝ち組負け組的な)の世の中においてはそこから離れて自由に絵を描くと言う考え方を持っていた方がむしろうまくいくのではないかと言うことも思った。

著者はゲーム理論の有効性も認めつつ、「ストーリーとしての競争戦略」と言う本も書かれているそうだが、ストーリーという言葉を使ったのは「ゲームではない」ということを強調したかったからだそうで、なるほどと思った。

こうして感想を書いてみると自分の中でも整理されてくるところがあり、戦略論というのは自分には割と未知の分野だが、面白いかもしれないと思った。

ツイッターで読んでいたのだが、とある合気道の指導者とその弟子の決別、破門に関わるブログを読んでいて、色々とああそうなのかと思うところがあり、自らニセモノを標榜するのはいいが、だからと言って真理を追究しないでいいという言い訳にはならない、という主張がなるほどと思えて、その人のやっている企画?のサイトなどを読むと色々勉強になりそうな感じがあり、身体に関することの奥深さみたいなことと、精神の固定されない自由さみたいなものとのバランスの取り方みたいなものが人によって釣り合いの取れる点が違うということなんだろうなと思ったりもした。

こういうものは求道(研究といってもいい)と啓蒙とのバランスみたいなものがあり、あるところまで求道が進むと自分はここまで、みたいになって啓蒙に力を入れるようになることもあるのだけど、弟子が指導者を超えていくときは、指導者の側が気づいて「私に教えられることはもうない。あとはより優れた師につくか自ら道を極めろ」という、まあ少年マンガの老師みたいなことを言って送り出せばいいと思うのだが、なんだかそれができないというのはちょっと残念な気がした。まあ破門は破門でその一つのやり方なのかもしれないし、私は弟子の側の文章しか読んでないから一方的な印象になっているのかもしれないので、そのことは書いておくべきだなと思うけれど。

破門以降その弟子の方は誰かにつくことなく、サイトを見る限りは自分で道を追究されているようだが、道の追究そのものの型みたいなものが身についているならば、それも可能なのだろう。それでも「ホンモノ」にも何度か会った、ということも書かれているので、その辺りのこともサイトを読んでいけばわかるのかもしれない。身体性の追求ということに関しては私も関心はあるので、勉強させてもらえるといいなと思う。



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