共感覚・侘び茶・自分のいる場所

Posted at 19/05/06

昨日は普段できない部屋の片づけ、特に本棚の(と床に無数に積んである)本や書類の整理をしようかなと思ったのだが、これもやはり普段全然止まっているスマホゲームをやり始めたら全然できなくて、でもスマホゲームの方は滞っているところが進み、とりあえず納得できるところまではクリアしたのでまあよかったと言えばよかったのだが、部屋の中は相変わらずなので残念は残念だ。

ただ昨日も書いたけれども、自分の持ってる本で自分が一番とっておきたい本というのは美術関係の本なんだろうなと思う。視覚的に、時々開いて安心したり、自分との対話をしたりするための本。文章を読んで自分との対話というのもあるけれども、それも文章内容というよりはその美的内容に関する部分である気がする。

真善美の中でどれに一番心が引かれる、動かされるかというと『美』なんだな、と思うことは多いけど、美を美としてのみ語ろうとすると軽薄になるところがあるし、その裏付けとしての善や真が重要になってくることもままある。歴史にしてもそのハイライトはある種の美であることが多いけれども、そこまでに無数の人々の善、ないしは正義や不正義が織り成していることも多い。そしてその底に流れる底流はある種の方向性、たとえば進化とか、を指す意味での「真」と言えるのかもしれない。真とはだからある種の世界観でありイデオロギーであり、それを感得するということはある種の悟りを開くということであるけれども、それ以外の可能性を捨てることでもあり、人の真実は一様ではない。ただより妥当な真実というものはあって、それが今では科学という名で語られているものたちなのだが、それもまたある種の限界はおのずとある、それは、科学もまた人の手で織り成されてきたある種の真実であり、である以上はある意味でのイデオロギーから逃れることはできないからだ。

というようなことを書いているが、ここ数日は久しぶりにそういう世界に戻って来れているところがある。4日の日に日比谷図書文化館に出かけて北村紗衣編『共感覚から見えるもの』(勉誠出版、2016)を借りて、宮澤賢治や尾崎翠の共感覚についての文章などを読んでいたのだが、確かに彼らの感覚は「共感覚」というフィルターを通して見ると理解しやすい面があるように思った。人を色に例えたり音に例えたりする。そういえば綿谷りさ『蹴りたい背中』の冒頭でも「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、」などとあって、彼女も共感覚なのかどうかはそれ以外の作品を読んでいないからわからないが、それをうまく使った表現ではあるなと思った。

とはいえ、私は共感覚そのものに興味を持っているわけではなくて、というか表現を考えるときにそれは一つのとっかかりになるとは思うけど、もちろんそれで自分の表現したいこと、あるいは読みたいことすべてが説明できるわけではないし、むしろとっかかりより先に言ってしまうと少し邪魔になりそうな感じもあって、だから多分私はそんなには共感覚的な感覚はないのだと思う。ただ、アートというものを再び意識するための入り口として、この感覚は面白いなと思ったようで、4日にその本を少し読んでから、5日の朝には自分の部屋の中にものすごくたくさん画集や写真集、演劇関係の雑誌、絵の描き方の本、詩や演劇や舞踊の雑誌や本があることを改めて発見した、ということだ。

私は専門は西洋史だったけど、一時は学士入学か修士課程を美術史で考えていた時期もあって、美術批評の方に進みたいという気持ちはあったけど、美術そのものは好きでもそれを言葉を使って説明したり批評したり解明したりすることにどれだけ気持ちが動くかと言えば、結局そこまでは行けない感じはあった。たとえばムリーリョの絵は聖母子像が多く、また風俗画も多いけれども、それは17世紀(黄金世紀)当時のスペイン、特にアンダルシアの状況を反映しているわけだけど、それをどれだけ知りたいか、そしてそれを知ることでムリーリョの絵の何かを知ることになるのか、ということに関しては結局「徹底的にやりたい」というところまでは踏み込めなかった。絵そのもの、作品そのものと対峙したいのであって、その先の周辺知識と対峙したいわけではない、という感じ。しかし専門家になるなら当然ながらその背景とかを知っていかなければならないし、まあそれは今となってはある意味有効な手段だとも思うけれども、作品そのものと向き合うことがそれで阻害されてしまうなら意味がないと当時は思ったし、ただそんなことでは阻害されない強靭さを持って絵と向き合うことの方が大切だという気は今はする。

まあいろいろ書いたけれども要するに対象と自分との距離感の問題で、昔はある程度距離を持って接したかった感じがあるけれども、まあもう人生50数年経ってしまうとそんなに残された時間も多いわけではないし、せっかくだからなるべく近いところでこういう作品に付き合っていきたいとは思う。

昨日は夕方どこに行くか決めずに家を出て、結局日本橋の丸善から八重洲ブックセンターまで歩き、本をいろいろ物色した後、『国宝のお医者さん』1巻(マンガ)ととんぼの本『茶碗と茶室 茶の湯に未来はあるか』を買った。『国宝のお医者さん』は文化財修復の話で知っていることも知らなかったこともあるという感じ。『茶碗と茶室』は「空間にふさわしい器、器にふさわしい空間」というテーマが何かとても刺激されるところがあり、自分の食器は自分の空間にふさわしいのが少ないなとか、人間という器とその中身の関係とかもお互いにふさわしくなっているかどうかとか、そういうことを考えていた。

最初の方、侘び茶の創始者とされる村田珠光(1423-1502)についていろいろ書かれていて、彼は東山時代(1449-90)の人であり、一休(1394-1481)にも参禅しているということを知って、侘び茶の創始者が絢爛たる東山御物の時代につくられ、また義満の印象が強い(アニメ「一休さん」のせいか)一休に参禅しているというのもその時代の空気というのが改めて考えさせられる。当然ながら応仁文明の乱(1467-77)の時代でもあり、テーゼとしての唐物文化の東山時代そのものに対するアンチテーゼとしての侘び茶であったのだろうなという気はする。

この本は読んでいると久しぶりに自分の感覚に近いものが取り戻せる感じがあって、ああ本当はそのあたりに自分はいるんだろうなあと思えるところはある。そういうことを時々思うのは、大事なことだなと思った。

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