「教養としての世界史」:賛成できるところとできないところ

Posted at 19/04/22

東京でやるべきことはいろいろあるので、今日は何をやろうかと考えた結果、まず本を読もうと思って山下範久編『教養としての世界史の学び方』(東洋経済、2019.4.5.)を読み始めた。

教養としての 世界史の学び方
山下 範久
東洋経済新報社
2019-03-21



まだ「はじめに」と第一部「私たちにとっての世界史はいかに書かれてきたか」の第一章「近代的営みとしての歴史学」の第一節「科学としての歴史学」の4つの項、「人類の進化と神話/神話と歴史は区別できるか/近代国家、大学、歴史学/ランケの「歴史主義」」を読み終え、第二節「近代歴史学と歴史区分」の第1項、「近代に生まれた三区分法」まで読んだところ。まだ33/442しか読んでいないので本全体の批評はできないが、ここで取り扱われていることにいろいろ感想や考えるべきテーマみたいなことは出てきたのでとりあえずそれを書いておこうと思う。

この本は、内容に対する賛否はともかく、かなり意欲的に「史学史」を振り返り、「世界史」ないし「歴史」というものとその見方をそれぞれの現場において活用することを目指して書かれた、歴史学専攻の人だけにとどまらない一般教養として歴史が活用されるべき多くの人たちに向けて書かれた史学概論的な書物ということで、その点はまず十分に評価されるべき書籍だと思う。それが歴史学専門出版社ではなく、「東洋経済新報社」によって出されたことで、表紙には「世界のエリートにとってなぜ世界史のリテラシーが重要か?」だとか「世界史は最強のリベラルアーツだ!」とか今流行の方向性が粉飾されていてまあそういうところは痛々しいけど仕方ないだろうなあとは思うし、まあちょっと勘違いしてでも買って読んでくれる人がいれば成功、みたいなところはあるんだろうなと思う。

まあそういう2019年時点での資本主義への妥協はあるのだけど、内容としては編者の山下氏が世界システム論のウォーラーステイン系の歴史理論家であるという点から見れば、むしろ左派系の内容になっているというのはまあ予想されるところではある。いろいろ論点はあるので、とりあえず今日は「はじめに」で取り上げられていることについて書きたい。

「はじめに」に書かれている「対象とされるべき読者」は三通りあって、一つはディスラプティブな破壊的創造を社会にもたらそうとするクラス、いわば社会を作り替えていく人たち(それは現代においては必ずしも指導者・エリートではないかもしれない)に向けたもので、いわばアップルのスティーブ・ジョブズがイノベーションによって自分の暮らしやすい社会を実現しようとしたのと同じようなビジョナリーな視点を提供するものとしての世界史という観点になると。これはジョブズがインドにかぶれたり書体学に熱中することによって現代アメリカやそこで当たり前とされていることを変えたいと願い、それを技術的イノベーションを通じて現代社会の生活そのものをパーソナルコンピューターやスマートホンによって変えて行ったことに通じる、ということのようだ。

ただ、私の立場から言えば、設計主義的に社会や世界を変えて行こうという思想には賛成できない立場なので、このようなビジョナリーな人たちが世界をどんどん変えて行くことには疑問もある。そういう意味で私は制度のドラスチックな変更よりも漸進的な変化を是とする保守主義の立場なのだけど、ただ、この立場から言っても変革者たちが何にヒントを得てどう世界を変えて行こうとしているかを知ることは対抗戦略を練るうえでも重要だとは思うので、世界史を学ぶことの意味があるということには反対しない。世界史はある意味両者共通の参照枠なのだと思う。

二つ目は高校生を含む歴史を学ぶ人たちが対象だと。アクティブラーニングが提唱され、自ら高校生が史料を読んで能動的に理解を深めるための基礎知識として、ということを言ってるのだけど、これはまあ正直言って無理だと思う。そこから身近な歴史を知るということは無益なことではないがとは思う。しかし、たとえばこれは、小学校での理科の授業のように実験や観察が主体になって子どもはみな面白がるけれども、中学に入って理論的な部分が出てくると一気に理科嫌いが増えるというような、そんなことに終わる気がしなくはない。また特に左派系だなと思ったのはいわゆる「歴史修正主義」を否定する文脈での主張があるけれども、歴史の見方が更新されていくこと自体は科学的手法に基づいても行われることで、それをいわば悪いことのように書く(明示的ではないが)のはやはり視点の偏りがあることは明らかだなとは思う。

ただ、歴史を学ぶ者が歴史学とはどういう考え方に基づいてどういう手法を用いるものかを知ること自体は大事なことだとは思うので、ややレベルは高いけれどもそういうことについて知ってほしいという願いは理解はできる。

三つ目は「本書のハードコアの読者」である社会科学において研究を志す人だ、ということで、この本がライトな外観にもかかわらず本当はかなりゴリゴリの本格的入門書を目指していることが分かる。ここでは著者の世界システム論的立場が語られ、読んでいると確かに「世界システム論は割とシンプルな西力東漸論をより構造化し、一般化したもの」であることが理解できるし、そういう意味で「ヨーロッパ中心の学問」に対する「左からのグローバル化」の視点を持って語られているように感じられた。

「右からのグローバル化」は結局は国際巨大資本の世界制覇的な方向性からの新自由主義的ボーダレス路線の正当化が語られるわけだけど、「左からのグローバル化」はむしろ政治的・人権主義的方向から西洋中心で発達してきた学問の脱西洋中心化とか、個人の移動の自由とか西欧世界による非西欧世界の収奪という構造から脱していかに持続可能な発展を実現するか、というような方向性で語られているように思う。

それはまあ美しい夢ではあると思うのだけど、冷戦構造崩壊後の現代世界においてヨーロッパの混迷や中東における危機、中国やロシア、イランなどの非西欧国家の世界進出における人道的価値観の相対化、トランプ主義やイスラム主義の問題など、数限りなくある現代世界における諸問題に十分に対応可能な視点だとは思えないところもある。

私はこの液状化していく世界において、まずは日本という国が格差問題など国自体が抱えている宿痾を解決し、強靭な実体として世界で生き残っていくことがまずはわれわれ日本人が考えるべきことだと思うのだけど、美しい夢は場合によってはそうしたシビアな生存競争の実態を糊塗してしまうことがあり、その辺はちょっと問題ではないかという気はしている。

しかし、立つ立場は違うけれども、歴史学が何か現代社会を考え、動かし、検証していくうえである一定の役割とはたす可能性があるということ自体には賛成できるので、その辺の観点からこの本を読んでいきたいと思っている。

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