休息の1日/イチロー引退/歴史家と作家の「論争」

Posted at 19/03/22

昨日は午前中松本まで行って体を見てもらって、だいぶすっきりしていると言われて少し安心した。昨日は休日だったし仕事も進められないのでなんとなくゆっくりしていたのだけど、終わり頃になってなんか色々現実に戻ってきたら結構大変だなという認識を新たにして、ちょっとやばいなと思いつつ寝たら睡眠時間は5時間弱になった。

しかし、タイムラインなどを見ていると昨日はどうもイチロー引退でだいぶツイートがあって、自分の気持ちはちょっとそれどころじゃない的な感じがあったため、なんだか乗り遅れてしまった感じがあってどうも残念な感じだ。イチローは偉大な選手だけど晩年はやはり色々と苦しんでいて、偉大なアイコンが辞めてしまう残念さはあるにしても、やはりそろそろ引き時なんだろうと思っていたので、稀勢の里の引退と同じような意味でなんとなく良かったなとは思う。引退後はマリナーズに関わり続けるのだろうか。渡米して成功した人は皆、野茂もそうだし松井もそうだけど、日本の球界には戻ってこないので、なんだかその辺は残念だという気はする。

歴史学者と作家のやりとりが私のタイムラインでは結構華やかに皆論評しているのだけど、これについては私はちょっと危惧も持っていて、ただそれをどういう風に書けばいいのか難しいなと思うところがある。歴史というのは医学と同じで、知りたい人が知りたいと思っても「それはわかりません」としか専門家は答えてくれない部分は必ずある。歴史も人体も巨大なまだわからない、解明されてない体系の中の一部しか専門家といえど見えてないわけだから、ある意味群盲象を撫でている。その「わからないまま生きていく」中で、何をよすがにするのかはその人一人一人が決めればいいと思う、という考えで私はある訳だけど、そこが戦場になって焼け跡になって大丈夫なんだろうかと思うところが時々焼けている感があり、なんかハラハラするのだがそこをどう書けばいいのか決めかねているところがある。

まあとりあえず論争の際はお互いに最低限の敬意は払いあったほうがいいというくらいのことしか言えない感はあるが、文化が違うしお互いその周囲の人たちの存在もあれば、またそれを見ている大衆もそれぞれのレベルがあるわけで、誰にでも伝わるように書くというのは論争している人たちにとってもそれを評する人たちにとっても難しいことではあると思う。

私は西洋史であることもあるが、国史日本史の分野でいうと、政治史の実証の部分が進んできたのはそれはそれでいいことだけど、もっと全体的な歴史観的な部分が取り上げられていくといいなと思う。その辺り、皇国史観やマルクス主義史観の後遺症というか、そういうことに関わらず実証だけでいくのが本筋、みたいな傾向があるのはちょっと残念で、網野善彦氏のように、新しい日本像・時代像を示していくこともまた大事なことだと思う。呉座さんの仕事の本筋もそちらの方にあると思うし、その辺にもっと脚光が当たるといいと思うのだが。

まあ、新しい歴史像もまた政治的な部分が出てくると取り扱いが難しいところは特に古代史や近代史にはあって、中世史がそういうことを今の所一番政治問題化せずにできるところだし、安心してみていられるところはあるわけなのだけど。

昨日は休日的な1日だったが、今日はまた朝から色々やらなければならないことが多く、まあ束の間の休息感はある。まあ色々休憩なども挟みながらやろう。

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