山月記論争、掛け算順序論争から考えたことなど
Posted at 19/02/02 PermaLink» Tweet
「山月記」に関するツイートでかなりツイッター上で話題になっていた新井紀子さんについて、私も色々思うところを書いていたのだが、ご本人からリプライをもらっていたことに気づかず、ツイッターのアナリティクスを見ていて返信があったことに気づいたのでこちらからも返信しようとしたら、ブロックされていたので返信ができなかった。
やり取りに関してはご興味のおありの方はツイログ等で私と新井さんのタイムラインを追いかけていただければわかると思うのだけど、ブログにまとめようと思ったのは「山月記」をめぐる批判を超えた次元での疑問であるので、その辺りのことはここでは触れず、より本質的と思われるところを考察し、書いておきたいと思う。新井さんの諸々のツイートから感じられる教育観・教養観に関する疑問である。
私が主に日本の教育について問題に感じていることの一つは「教養の退潮」ということで、より本質的に社会や人間、科学や諸々の人間の実践について考察していくための教養という面での教育が、学校教育からだんだん取り除かれつつあるのではないかということだ。
現代民主主義国家において、特に日本においては憲法で主権者は国民であると明示されており、国民の一員である我々一人一人が、日本の現在に責任を持ち、将来を決めていく主体であるわけだから、その大きな視点を持ち、考察していけるための根本的な教養というものは理想としては国民全体に、現実的に考えても日本の将来を決めていくかなり広範な層にとって必要なものだと思う。
根本的な教養というものは、もちろん法学や政治学的な知識、あるいは科学や医学の初歩的な素養というものも必要だが、より根本的に社会とは何か、人間とは何かを考えるような素養で、それは伝統的には哲学や倫理学、あるいは歴史や文学などの文系の素養、また窮理学と言われた物理学や、数に関する根本的な理念を扱う数学、あるいは博物学的な知識を教授する生物学や地理学などもまた教養の一部で、より広く言えば音楽や美術、演劇や舞踊、書道などを鑑賞しまた自分でも少しは演奏できるような芸術的な素養もその一部であると考えられてきた。
そのような教養がどういう形であるべきなのかというのは大事なことで、それに対する問い直しもまた現在行われている教育論争には含まれている。私は教養においては基本的に保守主義だということもあるが、全てを合理的にドラスチックに変えて良いという考え方には賛成できない。それはフランス革命におけるバンダリズムや文化大革命における紅衛兵の文化財破壊などの痛ましい先例があるように、行き過ぎた合理主義もまた一つの狂気であるというべきであると思う。
ただ、ここで新井さんの主張に戻ると、私が理解するところでは新井さんの主張は日本の子供たちの読解力は教養とかそれ以前のレベルに落ち込んでいるという問題意識から来ているもので、それ自体はよくわかる。ただ、そのことの解決のみに高校までの教育を全部ドラスティックに改変すべきかどうかというのは疑問がある。
当然だが、今の教育でもきちんとした教養を身につけている人だっているわけだし、その人たちを育んできた教養に触れる機会が教育から除去されるということには強い危機感を覚えざるを得ない。
本質的にいうと、新井さんは教育の大衆教育の部分をもっと立て直すべきだという主張で、それはそれで正論だと思う。ただ、大衆教育はもともと工場労働者や兵士が読み書きができないと使い物にならないということから近代国家において普及されたもので、それは国家に忠誠を誓うような通俗道徳とセットになっているのが普通だ。
一方で高等教育ないしエリート教育、ないしは教養教育というのは社会を主導する側に必要な教養や知識、思考や表現の技能を教授することが目的なわけで、主権者が国民である民主主義国家において、この部分はある程度は誰にでも必要なことだと思う。
私もそうだが、新井さんの主張に疑問を呈する人の多くは、この「社会を根本から考察し主導するのに必要な高等教育・教養教育」の部分が削られて読み書き教育に時間が奪われることへの危機感を感じているように思う。
新井さんからすればその危機感も誤解だということなのかもしれない。まず読み書きができなければ教養もへったくれもないと。それはわからないではないのだが、まずは読み書き、とばかり言っていても、人間には発達段階というものがある。中学高校レベルになれば社会への疑問なども感じる生徒も多いわけで、その段階で読み書きレベルのことばかり学校でやっていては学校教育が生徒の必要を満たすことはできない。
新井さんの「AI vs 教科書を読めない子どもたち」は、実際には大変多くの子どもたちが教科書をきちんと理解できないという「衝撃的な」現状を明らかにしたという点で大きな功績がある。もちろんそれは教育に関わっている人の多くがある程度は知っていたことだ。ただ独自の調査で全国的なレベルでそれを明らかにしたことは敬意を表するべきだと思う。
問題はその現状に対する処方箋だ。この辺り色々議論もあると思うが、私は現状把握から即処方箋に動くというよりは、その現状がもたらされている背後にはどのような本質的な問題があるかの考察がまず必要だと思う。もちろんそれも全然ないことはないだろうけど、大きく言えば日本の教育全体が本質的な意味での、自力救済的なエリート教育から他力本願的な意味での大衆教育に流されていっていることにあるのではないかと思う。
ツイッターで議論されている問題の一つに掛け算順序問題がある。3×5でも5×3でも答えは同じなのに、順序を逆にすると小学校では×にされている、ということへの批判である。
この問題の対立点は、本質的には批判者側である数学者ないし数学的な思考をする方々が原理を重視し、それを自分で解明できる本質的な意味での数学力を重視しているのに対し、小学校教師等現場の人たちは「言われた通りの手続きをちゃんと踏むことができる」という「手続き実践力」を重視しているということにあり、まさに先に述べたような「自分で考えることができる「主体としての力」を養うエリート教育」的な視点と「言われたことを間違いなく実践でき社会で有用な「人材」を育成することを目的とする大衆教育」的な視点の対立ということになる。
教育というものはもともとギリシャローマの時代、あるいは諸子百家の時代からまずはエリート教育から始まっている。ヨーロッパでも大学はすでに最古のボローニャ大学が近代の始まった時にはすでに長い歴史を持っていたが、大衆教育は例えばフランスでは「小さな学校」と呼ばれる日本で言えば寺子屋的なものがアンシャンレジームの時代にある程度あった、という程度のもので、識字率に関しても前近代においては教会に出された出生届などが親が自分で書けているかどうか、という方法で調べられたりしていて、名前だけはかける、という人もかなり多かったらしい。江戸時代、日本の寺子屋はもっと普及していたとされているが、それは商家の丁稚などが読み書き算盤が必要とされたから奉公に出るためには必要だという視点があったからだろう。
もともと別個に発達してきた大衆教育とエリート教育が接続されたのは近代国民国家で機会の平等が主張されるとともに国家としての人材発掘の必要もあってフランスで言えば革命期以降、日本で言えば明治維新以降に実現されたわけだが、本質的に教育には起源の異なる二つの営為の側面は排除できない形で残っているというのは認識されるべきだと思う。
したがって掛け算順序問題のような問題は教育という営為が構造的に持つ問題として起こっているわけだが、現代の日本の社会の持つ本質的な「優しさ」というか、母性愛的なパターナリズムというか、そういうものが教育においては強固に発揮されている傾向があって、とにかく子どもにとっての学習しやすさ、理解のしやすさ、あまり考えなくても反射的に手を動かせば「勉強」したことになるやり方がより歓迎され、そちらの方向に流されていっているという危機感が私などには強くあるわけである。
新井さんの主張はどちらかと言えばまずは読解力、という意味でそういう現状からの離脱を目指すという理想が感じられる側面と、そのためには現状のような「古い教養」の牙城を崩して読解力養成を一つのメインにして教育を再編するべきだという意欲的な側面が感じられるわけだが、先に述べたように私などは教養のより伝統的な部分を重視すべきだというスタンスなので、そのあたりのところは意見は合わないのだろうなと思う。
「読解力」と「読解問題のパターン化された解き方」ではやはり「読解力」が大事なのは確かなのだが、読解力のために他のものは整理しつつ多少の犠牲もやむを得ない、という考え方は、よほどの注意がないと赤ん坊を洗って赤ん坊を川に流すの弊を生みかねないという気はする。
それではどうしたらいいか、ということに関し、結局は臨機応変でとしか言えないところが私としても戦略家ではなく現場的な人間の弱みでもあるなとは思うのだけど、変えるならばより教養的な方向を重視し、語学だけでなく教養力、思考力においても諸外国に伍して戦っていけるような人材を育て得るような方向も考慮していかなければいけないと思う。
現代はポストモダン状況の中である意味中世に戻りつつあるという議論も時々あるけれども、日本が諸外国に対する様々な面での優位を失いつつある現状はある意味明治時代的でもあるわけで、「家貧しくして孝子出ず」という言葉が実現できるような、力のある人たちを育てられる制度になってほしいというのが願いではある。
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