本を読むこととかよりよく生きることとか

Posted at 18/12/11

しばらく忙しくてブログを書けなかったし、本もなかなか読めてないしツイートも少ないのだけど、たまたま読んだ雑誌記事の感想がツイッターでバズって(一日で54万オーガニックインプレッションというのはアナリティクスを見られるようになってからは最多だと思う)フォロワーさんが増えたりして、いろいろなことが起こるなと思う。

一つのことに興味を持って深掘りしていくことはよくあることだけど、私は興味を持つサイクルが短いというかあまり時間がたたないうちに興味の対象が移っていくことが多いので、趣味的に読んでいる読書では最後まで読み切らないことが最近は増えた。若い頃は新書1冊くらいなら数時間から一日で読んだ(記憶がある)ので興味が移らないうちに読み切れたが、今は何日もかかっているうちに興味の対象が変わってしまうことがよくあり、なかなか読み切れなくなってしまったなあと思う。

読む力というのは読めば読むほど高まる、というのは読むことで自分の中にある種の文脈が形成されるからで、だから全く新しいジャンルの本に手を出すとその文脈がないところからの読書になるから最初は時間がかかるしじれったい感じがする。時間がないとなかなかそういう新しいトライをしにくくなるのは残念だけど、読書以外のことで自分の中に文脈が出来ていくところがあって、そういう意味で読みやすくなることもある。特に自分の中で、あるいは身の回りのことでいろいろと問題に感じているようなことについての本は読書としては新しい分野の本でもそれなりに受け入れやすいことが多いし、自分の見る角度とは違う角度から書かれているのが普通だから、勉強になるなと思うことが多い。

スタジオジブリの広報誌『熱風』2018年12月号の養老孟司さんのインタビュー記事で(これは先に書いたツイッターでのバズったツイート、「蝶と毛虫は別の生物かもしれない」という話と同じインタビューの中で出てくる話なのだが、「読解力が上がる」ことが本当にいいことなのか、という話があって、これは確かにわからなくはないというか、つまり論理的に物事を考えるということができるようになることによって自然から離れてしまい、「ムダを切り捨てる」ということができるようになってしまって、そしてその無駄を切り捨てすぎた結果が社会の「脳化」であり、論理に合わないものをすべてノイズとして切り捨てる、つまりAIに敵わないからと人間が切り捨てられる、という発想が出てくる社会になってしまっている、という話も面白いなと思った。

私は本来の読解力というのはそのノイズを拾い上げる能力だと思っていたのでそうか、と思ったのだが、いま読解力と普通に言われているのはA=BでB=CならA=Cだという論理を読み取る能力を指している、という指摘もまあそうかなと思った。ツイッター上などで文章が読めないという指摘を受ける人のツイートは様々な混同とかよくわからない基準の区別とかがあることは確かで、誰にでも読み取れるという意味での読解力というのはそういう記号的なレベルのことかもしれないとは思う。つまり理系的な意味でも必要な読解力ということだと言えばいいか。子どもたちが教科書を読めないのはa=bだという論理自体を拒否しているからだ、という指摘はなるほどと思うところがあった。

よりハイコンテクストなことを読み取れる文系的な読解力がつけば自然との融合が図れるかというとまあそれもなかなかどうかなというところがあるわけで、自然との融合というのはおそらく常に自然に帰ることができる環境のようなものがないとなかなか難しいと思うし、それが現代社会における深刻な問題だという指摘は養老氏は以前からしていて、それは今までぴんと来ないところが強かったのだけど、今回の読みでは今までで一番それがそうかあという気がしたように思った。

本を読めるようになることと、とよりよく生きること、が必ずしも同時には実現できない可能性があるというのはなかなか残念なことではあるのだが、まあそんなことも暇のある時に少しは考えてみるといいかもしれないと思ったり。

追記

ブログをアップしてから眠くなったので朝風呂につかりながら漠然といろいろなことを考えていたのだが、本を読むこととよく生きることをなるべく両立させようとするには、書くことなんだなと思った。書いてみると、読んだことが自分の中でどうとらえられているかが自分で感じられるし、書いているうちに内在していた読んだ内容への疑問が浮かび上がってくることもある。自分の生に対して読んだ内容の何が大事なのか、何がそうでないのかも書いているうちにはっきりしてくることがある。そういう意味で、読書した内容と自分の生を触れ合わせ、手を切るべきところは切り、通い合うところは通わせたりまたそれを切ったり。読書と自分の生をともに豊かなものにするには書くという手段はあるのではないかと。

というか、自分はいろいろな意味でそういう感じで書くということを使っているのだなと思うし、だから結論がはっきりしているような商業的な文章はあまり書きたい感じがしないし、どちらかというとこういうオープンエンドな感じになるのだなと思った。

まあ自分のような、非専門的(学者ではない)・非文学的(小説等ではない)な内容を書く人間の文章をほかの人に読んでもらう意味があるとしたら、そういうこの世界に偶々一緒のときに生きている人がこんなふうに感じたり思っていたりするということが何か「そうか」とか「そうなんだな」とか「ふうん」とか思ってもらえば多分それで十分意味のあることなんだろうと思うし、また自分自身にとっては書くだけで十分意味があるのだけど、それを読んでもらったり何かコメントをもらったりしたらまた近い感受性の人がほかにもいるのだなということを知って豊かな気持ちになるということもまたありがたいことだなと思う。

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