学ぶか死ぬか。学ぶとは生きるための知恵を身につけること。

Posted at 18/10/25

このところしばらく腰が痛いこともあってか万事に消極的になっていて、その中でうめくような気持ちでブログを再開して毎日書いていたのだが、昨日ようやく整体に行って腰がかなり良好になるとともに自分の抱えている、あまり意識していなかった「不安」の問題も指摘されて、少し客観的に自分を見られるようになり、そこから前向きな気持ちが出てきた感じがある。

ただ、昨夜は寝かかったところでたくさんのことを考え始めてしまい、寝付くまでにだいぶかかってしまい、これは睡眠時間が少なくなるなあ、参ったなあと思っていたのだが、寝起きばなに不思議な夢を見た。小説かマンガで読んだのか、それとも頭の中で生まれた話なのか截然としないのだが、二人の意識と身体を同時に持っている男、というか二人の男が一つの意識を共有しているというか、そういう男が出てきて、しかも岩山で殺しあっている二つの集団のそれぞれに意識を共有している男がいる、という状況で、一人が気を失うと敵対勢力側にいるもう一人の男が息を吹き返し、自分がどこにいる誰か確認してから行動する、という話だった。二人の男はそれぞれに敵対意識というよりはなんとか生き残ろうという意識で行動していて、相手側の行動とか作戦も読めるのでそれの裏をかいたりはするが相手に決定的な攻撃を加えるような行動はしない、という感じの場面だった。

それぞれの男が生き残るためにどうすればいいか考えながら行動していて、その中で、「学ぶか死ぬか、二つに一つだ」という言葉が私の脳裏に思い浮かんだ。そして問う。学ぶとは何か、と。そして答える。生きるための知恵を身につけることだ、と。

学ぶとは、生きるための知恵を身につけること。

これは忘れていたが、基本だなと思った。

私は学ぶ、ないし勉強することが子どもの頃から嫌いではなかったし、勉強すれば勉強するだけ色々なことがわかっていき、成績も上がることが楽しかったが、ただそれだけで勉強していたのではなかったな、と思う。

勉強することが楽しくなってしまうと、「学ぶことは生きるため」という本来の目的を見失ってしまう。そうなると、小学校などでは他の子供たちが「なんだかわからない不健康な楽しみに耽っているやつ」という目で見、接してくるようになる。「なんで勉強なんかすんだ」「楽しいから」では変態的に見られてしまう、というのは今ならわかる。世の中で主導権を握るのは基本ウェーイ系だからだ(ヤンキーともいう)。しかしもし、その時に「生き残るためにやってるんだ」という本来の目的をいうことができたら、ちょっと違った目で見られたかもしれない(余計変な目で見られた可能性も高いが)。

しかしそこのところを、自分でもわからなくなってしまっていたな、と思う。父は「自分のやりたいことをやれ」という教育方針だったし、「勉強するのは、楽しいからしている」というのはそういう親に対する理由表明としては模範的な回答だったからだ。

でも実際のところは、そこに対する違和感はあったのだなと思う。しかし、その違和感はなかなか表面に現れることが少なかった。「勉強するのが楽しいから勉強する」という表現は、ある意味正義だったからだ。

しかしもちろんこれは、「悪いことをするのが楽しいから悪いことをする」というのと本質的な違いはない。それが社会的に受け入れられるかられないかだけの違いだ。だから勉強した結果を悪いことをするのに使っている人たちもたくさんいるわけで、やはりそれだけではだめなのだ。

子母澤寛の書いた小説「勝海舟」にこんな場面が出てくる。勝の弟子の杉亨二、彼は日本の統計学の祖と言われている人物だが、統計学の本を熱心に読んでいる杉に勝が、「統計学は面白いかえ」、と尋ねる。杉は「面白い、実に面白い」と答えるのだが、それに対し勝は「そうかえ。俺は面白いからって勉強したことは一度もないな」と答える。そこで杉はハッとして、自分の心得違いを悟り、より真剣に身を入れて学び、大成する、という話である。

この場面は「面白いから勉強する」という動機の危うさ、ないしは底の浅さというものを指摘していて、当時「面白いから勉強する」と思いながらもその学び方に限界をも感じていた自分にかなり痛い指摘であり、嫌なことを言われたという意識からか特に記憶に残っていたのだが、この言葉が正論であるということも感じていて、だがそれが何を意味しているのかは測りかねていた。

ここに、「学ぶとは、生きるための知恵を身につけること」という言葉を重ねてみると、できたばかりの新生日本にとって、学ぶべきことはいくらでもあったはずで、それは面白いからと言っていられるレベルではなく、日本が生き残るためにこの学問が必要なのだ、という強い気持ちを持って学習しなければならない、という指摘であることがよくわかる。

これはおそらく、現代でもなお考えるべきことで、特に科学の面でも研究が面白いからしているというだけでなく、この研究が自分が生き残るため、また日本が生き残るために、あるいは人類が生き残るために必要なのだ、という強い気持ちを持っている人が例えばノーベル賞などの結果を生み出し得るのだと思う。

楽しいから勉強する、ということは悪いことではないのだが、そこに自分が生きる、自分が学ぶ、自分が研究することの意味をもう一度思い出すことが、よりその学びを深め、さらに迷いなく進めるものにしていくのではないかと思う。

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