自分が自分でない感じがすること/受けを研究すること

Posted at 18/06/27

昨日は仕事はそれなりに片付けたのだけど、勉強や本を読んだりはあまりできなかったので、そういう時にはなかなか書くことがない。

日本のあちこちでとんでもない事件が起こっているし、世界でもトランプのジョーカーじみた行動によって第二次世界大戦後の安定的な政治的にはリベラル、経済的にはフリートレードの国際秩序がかなり脅かされている。何かが大きく変わろうとしている時期なのかもしれない。梅雨の様子もどうも変だし、大阪で数百年ぶりの地震が起こったりもしているし。

自分の中で、自分はこういう人間だとか、こういう人を目指したいというビジョンのようなものが、どうもこれもかなり揺らいでいて、自分が自分でない感じがすると思う時もあったりしたのだが、いまはこんなことなんじゃないかと思う。

今まで自分は少し斜に構えた感じに格好をつけたスタンスで(こう書いてみるとダサいな)、基本的には自然に振る舞うとともに理想を持ってことに当たっていくというか、まあそんな方向性の人間だったような感じはするのだが(これも以前ならもう少し違う言葉で表現していた気がする)、いまは自分の中でいろいろな「こうなりたい」ものと「こうなりたくない」ものとがお互いに矛盾しつつどのように構えればいいのかがわからなくなってきている。

基本的には余裕を持ち、いろいろなものを受け入れながらも、果断に方向性を定め、自らの事業で人を生かす、大を生かし小も生かすような存在でありたいという気持ちが昔に比べて強くなってきた。これは多分元々のタイプとはかなり違うので恐らくは厳しいのだけど、それに加えて半端に振る舞いたくないがしかし損はしたくない(これは割と強い)し、自分がコンプライアンスをしっかりしないといけないとともに人にルールを守らせたいという気持ちもあり、しかしなるべくは天心に自然体で振る舞いたいという気持ちもあって、いろいろなものが自分の中でせめぎ合って混じり合って邪心になってしまっているところがあるような気がする。

自分が自分としてやりたいことやろうと決めたことをして生きていくことと自分を悪意その他から身を守ること。そういういわば「受け身の取り方」みたいなことが自分は下手だなと思う。そういえば「守る」とおもわず「受ける」と考えろ、という話もあったな。「攻めの将棋」、「受けの将棋」はあるが「守りの将棋」はないとかいう意味で。そういう意味では「受け方のバリエーション」みたいなものをもっと学ぶ必要があるんだろうなと思う。

今日は考えながら書いているので何を言いたいのかうまく伝わらない、というかだいたい私が何を言いたいから書いているというより考えを進めるために書いているので当たり前なのだけど。

とりあえず、「受け」をもっと研究するということは大事だなと思いながら、受けがそのまま攻めにつながる攻防の一着を目指したい、みたいな感じにしておこうかと思う。

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