外山恒一「良いテロリストのための教科書」を読んで80年以降の左翼史と自分の人生を振り返ってみたりした。

Posted at 18/01/19

外山恒一「良いテロリストのための教科書」読了。面白かった。




外山さんは1970年生まれ、革命家を自称し、「九州ファシスト党<我々団>」総裁を名乗っているが、もともと90年代半ばには「面白極左活動家」を名乗っていて、いわゆる学生運動の解体後、せいぜい80年前後までしか語られることのなかった「左翼」の運動の流れを現代のシールズの活動に至るまで語り下ろした、とても面白い本になっている。

とはいえ、上だけでは何が面白いのかよくわからないだろうとは思う。私も「全学連」(現代書館For Beginersシリーズ)などで自分の学生時代、つまり80年代前半に左翼運動史は読んだことがあるが、あとは実際に周囲にいた人の様子などを見てきただけで、80年代後半以降の左翼運動史は全然知らなかった。




しかしこの本を読んで実際の左翼運動が何を転機に変化して行ったのかとか、どういう理由で左翼が他の西側諸国とは違う方向に行ったのかとか、かなり見えてきた部分があるなと思う。

今回知ったことの一つ目は、華青闘告発。1970年の夏の全国全共闘の集会(当時の全国全共闘は本来のノンセクトラジカルの学生たちではなく、セクト系の8党派に事実上乗っ取られていた)で、華僑系の青年組織・華青闘が八党派を「反差別」の側面から徹底的に批判した、という事件。それまで全共闘(ノンセクト)の学生たちの中から戦後民主主義そのものの批判から自己解体路線というか、「アジアを侵略したのに恵まれた生活を送っている」自分たちのありかたそのものを批判する「自己批判」「加害者としての日本人の自覚」みたいなものが出てきて、唯一の前衛党を名乗った彼らからしたら脳天気なセクト集団を「被害者」である中国人のサイドから徹底的に批判し、逆にセクト側にその視点を植え付けたという事件だったそうだ。

これは読んだ感じでは確かに左翼運動の大きな転換点であったように思われる。どちらかというと「素晴らしい社会主義の世界」を夢見、また封建社会から民主主義社会への人類の進歩みたいな肯定的な姿勢が「旧左翼」の、あるいは新左翼においても方法論はともかく共有されていた世界観だったように思われるが、厳しい自己批判と自己解体の強要みたいな、ある種の「暗さ」が左翼運動に導入され、それがある種のマウンティング的な権力闘争に利用されて行ったのが左翼運動の転換点だったのではないかと思う。いわゆる「南京大虐殺」問題や「従軍慰安婦問題」がクローズアップされるようになったのも左翼にこの「自己批判」と「加害者としての日本人」の視点が導入され、そのマウンティングのために朝日新聞や諸党派によってこの問題が競って取り上げられ、韓国や中国に出かけて行って自己批判をしたことがステータスになる、みたいな倒錯したマウンティング合戦が行われて今日のようなこれらの問題をめぐる惨状が出来上がった、ということなのだろう。

そしてまた、全国全共闘を乗っ取ったセクト側がノンセクトの「自己批判」「加害者としての自覚」路線に屈伏することによってセクト側も変質し、試合に勝って勝負に負けた的な感じになった、という指摘も興味深いと思った。また、「全国全共闘」から締め出されていた日本共産党=民青と革マル派だけはこの影響を全く受けなかった、というのも思わず膝を打つ感があって、日共支持者がやたら善良な印象と、また革マル派と思われる人物と議論した際に山谷の労働者のような人々を「ルンペンプロレタリアート」とバカにしていてなんだこの人左翼なのか?と思った記憶などとつながったのだった。

二つ目は、日本の新左翼セクトが他の西側諸国に比べて極めて大きな組織だったという指摘も目から鱗だった。もともといわゆる「68年の革命」は日本でいうノンセクト的な、ばらばらな個人による社会・文化革命という側面がフランスでもアメリカでも強く、日本のように中核派や革マル派のような「数千人規模」のセクトは他には見られないのだそうだ。これは日本のことしか知らなかったからすごく新鮮だった。日本の新左翼のセクトは1955年の六全協による日本共産党の武装革命路線との決別から袂を分かった人々が起源だから、55年体制と同じくらい古いわけで、「新左翼」という言葉は同じでも68年の自然発生的な各国の運動とはかなり違うということなのだろう。

だから世界的な「68年の革命」のムーブメントととはその後の顛末がかなり異なってしまい、もともと「いわゆるポストモダニズムは68年の思想の理論化だった」という指摘も全く目から鱗で、日本がノンセクトラジカルの運動家がそちらに流れず、単なる知的流行のように受け止められたのは、学内で運動の理論家になりそうな人物が出てきたらその大学を仕切っていたセクトが潰す、という70年代後半から80年代の傾向が運動と理論の一体化を阻んだ、という指摘はようやくポストモダニズムの社会的位置をつかめた感じでとてもありがたかった。

またそういう経緯からポストモダンというのは本質的にノンセクト的左翼なので、1991年の湾岸戦争をきっかけにポストモダン派の人々が急速に左傾化し、一部はかなり尖鋭な差別糾弾派になっている例があるのも、形から入ったけれどもそれが本質になったみたいな感じがあったり、またポストモダンが大学を乗っ取った(われわれの世代だな)ことによって学者も官僚もマスコミもインテリ層はみなポストモダン的=ノンセクト的左翼色が大変強くなったのだ、という指摘も納得できるものがあった。

日本の左翼運動は70年代に完全に下火になったように思われているが、実は80年代後半に反核運動という形で盛り上がった時期があり、この時期に「反管理教育」の保坂展人さんとか「ピースボート」の辻元清美さんとかが出てきているが、彼らは大学内から出てきていないのでセクトの暴力にあまり晒されずに済んだが、「理論もセンスもない」が妙に明るく元気な団体として出てきた、という指摘もまた膝を打つ部分があった。もともとは欧米の70年代後半の新しい左翼運動と同じ、運動自体を楽しもうという傾向を持った運動で、反核運動でもダイインとかやってる人たちは楽しそうだな、と思うような運動が出てきた。今でもエコロジー系の運動などではアースフェスタみたいなやはり楽しげに見えることをやっている人たちがいるが、この辺のルーツは80年代後半なのだという。

私はこういうのはどちらかというと代々木(日本共産党)系の赤旗まつりみたいな一般市民を取り込んでいこうという運動だと見ていたのだけど、それよりはやってる本人が楽しもうという運動だったらしく、それはその渦中にいた外山さん自身が語っていることで、より説得力があるなあと思った。この辺は認識を改めた方がいいのだろうと思う。

私は基本的に「左翼運動を楽しもう」、つまり「政治活動を楽しもう」という路線自体があまりよくわからないのでつい「日共中央の策謀」とか思ってしまうが、実際に運動に関わってる人を見ると案外みんな楽しそうであることが多いので、ちょっとなんか私とは違うんだろうなと思うしかないという感じだろうか。多分この辺の感覚が理解できないと80年代以降の左翼運動に共感的に接するのは難しいんだろうなと思う。

私は裏で何をやっているかはともかく、「政治とは最高の道徳である」みたいな威厳と徳のある、少なくともそう見える人が政治家としてふさわしく、またそうあるべきだという感覚なので、安倍首相をはじめとしてなんだか政治自体を楽しんでる感じの政治家というのは今いち不安というか分からないところがある。

ただまあ、考えてみると、今では医者も医療を楽しんでるんじゃないかと言う感じの人がいるし、たとえば戦争中の陸軍の話など読むと陸軍内の人事抗争や戦術をもてあそぶことを楽しんでたとしか思えない人たちがいたと思われるし、どうもそういうのを読むとそういう「人の命に関わる仕事をする人たちはもっとまじめにやってほしい」と思わざるを得ない。政治などその最たるものだけど。

外山さんもそういう意味では「革命家」を自称し、これだけの分析能力と経験的なものを含めた蓄積を持ってる人でありかつそれを面白く見せる「芸」の持ち主であるわけで、才能があり過ぎる人は政治(運動)家として見ていてちょっと不安を感じさせる、というのと近い感じもあるなと思った。

私は基本的に楽しくない仕事はやりたくないと思っているから、政治など楽しんではいけなそうなイメージのある仕事は出来ないなと思って政治から距離を取った部分もある。ただ自分が出来ないからこそその道を選んだ人たちにはある種の憧憬のようなものもあって、在学中もそういう人たちと機会があったら議論して(回数は多くはないけど)その考え方を理解しようとはしていた。

政治を楽しくやることは理解の外だが、政治に関わることを分かりやすく興味深く説明する能力みたいなものは政治家の大事な資質だとは思っていて、だから田中角栄とか演説のうまい政治家は才能があるなと思っていた。

話が脱線したが、70年代以降の左翼運動の世界的な傾向の中に自分たちを表現したりするアートや音楽との連合(パンクロックやラップなどもそうだろう)があり、ポストモダン理論もまたそういうものと結びつきながら発展したのだけど、日本だけは中核となるべき政治運動がしょぼかったので、どちらかというと個人の生き方の問題に化けて行き、まあこれは日本だけではないけど商業主義に飲み込まれて行ったのだろうなと思う。

ただその中でも限界はありながら真摯に地道に左翼運動をやってた人たちの話がこの本の3章に書かれていて、これが現代のさまざまなムーブメントにつながっているらしいことがわかった。これらの中心になったのが70年前後に生まれた世代、バブル世代の最後からいわゆるロスジェネにかけての世代ということのようだ。

私にとってピースボートや反核運動がどうしても心理的に受け入れられなかった大きな理由は、彼らがどうにもダサくしか見えなかったことで、外山さんはその理由を、欧米と違い政治運動が理論や哲学と切れているから知的な水準が低く、芸術と切れてるからセンスがない、と説明してるけど、全くその通りだと当時感じていた。私は政治や思想には興味を持ちながらも身体の問題や表現の問題の方に強く惹かれていたので演劇をやっていて、その目から見てもどうにも受け入れられない感覚があったなあと思う。

しかし言われてみたらそうだったな、と思ったのはチェルノブイリ後しばらくたって反核運動など左翼運動が盛り上がった一つの理由は、80年代後半がレーガン・サッチャー・中曽根の今でいう新自由主義の左翼から見れば悪の権化のような政権の時代であり、かたやソ連は善人ぽいゴルバチョフが頼りない感じながらもペレストロイカを進めていた時期で、土井たか子が社会党の委員長になったりニュースステーションが反権力をあおったりフィリピンで民衆革命によりマルコス政権が倒されたり、確かにそういう雰囲気が強い、ある意味「希望に満ちた」時代だったなと思う。

しかしその希望の方向は経済の過熱によりバブルへと思いがけない方向に転び、バブルが崩壊すると今度は55年体制も崩壊して80年代後半の雰囲気を引き摺った細川連立政権が生まれるという流れになる。

私自身も広瀬隆の著書に影響を受けて反原発ものの戯曲を書いたり、話の種に反原発デモに参加してみたりもしたのであの時代の雰囲気は少しはわかるのだけど、変に希望に満ちた感じはあった。しかし「こんなことでは世の中変わらない」という気持ちは私にはあったけど、でもそこから世の中を変える運動を続けていると山さんのような人もいたのだなとこのあたりは読んでいて少し感慨深いものがあった。

私自身はそういう左翼運動(というか私の当時の認識としてはそれらは「左翼運動」ではなく「市民運動」だった)にはあまり興味をもてず、演劇からマンガや映画、サブカルチャーよりから批評的にアートを見るような方向に興味が向いていたけれども、政治よりもむしろ当時出てきた新新宗教のようなものに関心があった覚えがある。

この本の内容とはずれるが、新新宗教で社会的に大きな影響を与えたのはオウム真理教と幸福の科学、今ではその勢いは衰えているように思うが統一教会だろうと思う。外山さんがそれらのことに触れてないのは、むしろ少し不思議な感じがしたくらいだ。もちろんこの本の趣旨と関係ないと判断されたからだと思うが、普通なら政治に関心を持つ若者の中から宗教の方に流れる若者が無視できないくらいいたということは少し大きなことだったと思うし、その中でも権威的な既成宗教でない新新宗教に、それもややカルト的な傾向のある教団が多くの若者を取り込んでいったのも80年代後半の一つの特徴的な現象であったように思う。

まあこの本の内容を自分の体験に照らしながら考察するとどうしても自分史を振り返るような側面が出て来るので自分語りは少々勘弁してもらいたいと思う。

で、私のそれらの宗教に対するスタンスは、まあまずオウム真理教に関しては最初に麻原彰晃の空中浮遊のポスターを駒場の学生会館で見たときからこれはヤバイ宗教で近付いたらまずい、という印象を強く持った。しかし私のまわりでも統一教会やオウム真理教にとりこまれた人はいて、わりと地道に左翼的な政治運動に関わっていた人たちもいたけれどもむしろ宗教の方に自分の関心があったのは、やはり社会全体のことより自分の生き方の問題の方に自分の関心が強かったからなんだろうと思う。

で、左翼運動の話に戻ると、80年代から90年代前半に政治的意識を持ち始めた人たちが外山さんいうところのドブネズミ系(語源はブルーハーツの「リンダリンダ」の歌詞らしい)であり、面白左翼的な傾向が強く、90年代後半になるとゴーマニズム宣言の影響を受けて政治的意識を持ったむしろ右翼的な傾向の人が多く、2001年以降になると911に影響を受けて政治意識を持った反グローバリズム・反差別主義的なしばき隊系のグループ(パヨクと称されるグループ)が出てきて、2011年の311後には反原発の盛り上がりの中からシールズが出てきたが、これは若者の運動というよりは年寄り左翼に持ち上げられて過大評価された集団だという評価を外山さんはしている。

一方ではノンセクトラジカル系の生き残りで「ヘイトスピーチに反対する会」を中心としたヘサヨと称されるグループがあり、現代の左翼運動はおおむねこれらの集団に伝統的旧左翼の日本共産党と伝統的新左翼の革マル派がある、という構図のようだ。

外山さんは自身が属していた(ファシストを自称している現在でも心理的には距離が近いよう)ドブネズミ系について詳しく説明していてその辺も面白いのだが、まあ面白左翼という感じで、到達したい目標や組織の強化みたいなことより盛り上がり重視の一発屋というか、面白いことをやりそうな人のところに人が集まって来る、イカ天ブームとかチン↑ポム的な企画重視、ノリ重視の系統のように思えた。

いずれにしても現在の左翼運動に共鳴するところはほとんどないけれども、なぜそういう集団があるのかということは理解しておいた方がいいとは思うし、理解しておいた方が現代という時代と社会とを把握するには役に立つように思った。

私自身が少しは関心を持つのはやはり格差と反貧困の問題、それが集中的に現れているロストジェネレーション世代と彼らの結婚・出産が少なかったことによりもたらされた少子化の問題、そしてそれをもたらした新自由主義的な緊縮財政の問題というところで、だからアベノミクス的なリフレ政策はこれからも維持されるべきだと思うし、格差が拡大する政策には反対だし今貧しい階層にいる子どもたちが社会的上昇を成し遂げられる仕組みは必要、かつ維持されるべきだと思うし、それは政治思想の右翼・左翼に関わらず喫緊の問題だと思う。

安倍政権の政策で最も問題があるのはイノベーションをもたらすべき大学・研究機関が資金難にあえいでいる問題で、それは当然人材難をもたらすし、研究者の枯渇という恐るべき問題を引き起こしつつあるところだろう。政権側はおそらく大学に巣くうポストモダン左翼リベラルを苦しめることが目的なのだと思うが、それは近視眼的すぎる。左翼運動家が思想と離れて知性を失ったのと同じく、それと対峙すべき保守・右翼の側もネトウヨに代表されるように知性が失われているのは深刻な問題だと思う。

感想だけでなく今思ってることを書いたから冗漫になったけれども、この本は自分の人生を振り返らせ、今現在自分のいる地点をもう一度確認させる働きが自分にとってはあったと思う。読んでよかった。

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by Luke Peterson

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